新撰組発祥の原点:伝通院と試衛館跡は今どうなっている?

伝通院

新撰組の前身の浪士組が結成された、文京区小石川にある伝通院。およそ160年前、ここで浪士組の結成がなければ、池田屋事件は起きなかったかもしれないし、池田屋事件がなかったら明治維新は10年早まっていたかもしれません。ここは、そんな日本の歴史を変えてしまうような出来事の原点とも言える場所なのです。

また、上野の寛永寺や芝の増上寺に次ぐ、徳川家の菩提寺でもあるそうです。

伝通院の見どころ

伝通院は江戸時代の色濃い古い寺院かと思いきや、拍子抜けするほど門や本殿が新しくとてもきれいな寺院です。新撰組の原点として訪れると、近藤・土方・沖田らは絶対にこの景色は見ていないだろうなぁと想像できる新しさで、少々がっかりするかもしれません。

それもこれも、第二次世界大戦で建物は全焼してしまい、昭和24年から徐々に建立していっているようです。

浪士組(のちの新撰組)の痕跡はほとんど残っていませんが、見どころをいくつか紹介します。


浪士組結成の地”処静院”跡

処静院跡

伝通院は江戸時代の頃にはもっと広く、伝通院の敷地内に子院がいくつかあったようです。

浪士組の結成は、その中の1つ『処静院』で行われました。

処静院は、現在の伝通院の敷地の外にあり、伝通院内を見学しても新撰組の説明はありません。

伝通院を出て右に数メートル歩くと、道路沿いに処静院の説明看板が建っています。

処静院跡看板

浪士組結成の地”処静院跡”

文久3年(1863)2月4日、浪士隊の結成が、ここ処静院で行われた。浪士隊は幕末、京都守護職(会津藩主 松平容保)のもとで活動した新撰組の全身である。隊結成にあたり、中心となった人物は清河八郎で、幕臣の鵜殿長鋭が目付、山岡鉄太郎(鉄舟)が取締の職についた。
鉄舟と懇意であった処静院の住職林瑞は結成の主旨に賛同し、結成の場所として本院を提供した。後に新撰組幹部となる試衛館道場の近藤勇、土方歳三、沖田総司なども参加し、総勢約250名ほどで京都に上った。しかし、尊王攘夷をめぐって隊は分裂し、江戸にもどった清河八郎は、麻布一の端で刺客の手で斃された。享年31歳。
(処静院の説明看板より)

この看板にある地図によると、処静院は、現在は民家や道路部分に当たるのではないかと思います。

処静院の石柱

石柱

唯一処静院の面影を残すものとして、『不許葷酒入門内』と書かれた石柱があります。この石柱は、伝通院の門の手前(向かって左)に残されています。

この隣にも、新撰組に関する看板が建っています。

新撰組説明看板

清河八郎の墓

地図

浪士組の発起人である”清河八郎”はその直後に暗殺され、浪士組結成の幕府取締役かつ、この伝通院の裏に住んでいた山岡鉄舟の計らいにより、死後はこの伝通院に埋葬されています。

地図上の左真ん中あたりに記されている八番が、清河八郎のお墓の場所です。

ちなみに、清河八郎はもともとこの浪士組を将軍警護のためという名目で集めました。しかし京に上ってみると、実は尊皇攘夷という真逆のために浪士組を働かせようと企てていたことが発覚します。清河の企みは成功し、浪士組は天皇のために働くことになりますが、喜びも束の間、清河は幕府の見回り組佐々木只三郎に暗殺されました

この時、近藤勇らは初志貫徹の道を選び、清河の浪士組とは袂を分かって新撰組を結成しました。

徳川家の墓

地図

伝通院という名前はそもそも、徳川家康の生母の法名が「伝通院」であったことから名づけられたというほど、伝通院は徳川家と深いつながりがあります。

そうは言っても、徳川家の菩提寺として有名なのは上野の寛永寺と芝の増上寺。ここ小石川の伝通院は、将軍は一人も祀られておらず、将軍の奥方や子どもが5名埋葬されています。(名前の隣の番号は、地図上の位置です。)

1.於大の方(徳川家康の母)
2.千姫(第2代将軍秀忠の長女)
3.亀松君(第3代将軍家光の次男)
4.孝子(第3代将軍家光の正室)
5.於奈津(徳川家康の側室)

徳川家康の産着の鎧

産着の鎧

あまり知られていませんが、本殿の中央階段を上らず脇の階段を下ると、半地下部分に於大の方に関する展示が少々あります。

竹千代(後の家康)の初節句の際に用意された鎧を再現したものが展示されています。

浪越徳治郎の指塚

指塚

『指圧の心は 母心 押せば生命の泉湧く』のフレーズで有名な指圧の創始者”浪越徳治郎”の指塚もここにあります。

吉田茂元首相、マリリン・モンロー、モハメド・アリなどの世界的な著名人をも施術している、浪越氏の黄金の手を表した、かなりインパクトのある像です。

試衛館跡

試衛館跡

司馬遼太郎の『燃えよ剣』では、近藤勇の試衛館は小石川界隈にあり、伝通院すぐ裏にあったことになっていますが、これには諸説あるようです。
現在の通説は、新宿区市ヶ谷甲良町あたりのようで、現在そこには試衛館跡の碑が建っています。

伝通院まで歩いて30分程のこの場所から、幕末の動乱期に一花咲かせようと伝通院に向かった彼らに思いを馳せ、伝通院参拝の前後に立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

ただし、民家の中にポツンとこの碑があるのみなので、30分歩いて行く価値があるかどうかは、人それぞれです!

小石川散歩

高橋泥舟・山岡鉄舟旧居跡

鉄舟の旧邸宅跡

伝通院の裏に住んでいたことが、伝通院の説明看板にも紹介されている山岡鉄舟の旧居跡は、現在の伝通院から徒歩10分くらいの場所にあります。勝海舟、高橋泥舟とともの『幕末の三舟』と呼ばれる山岡鉄舟は、義兄でもある高橋泥舟と隣家に住んでいたようです。

伝通院の敷地範囲が当時と若干変わっているようですので、おそらく山岡鉄舟が住んでいた頃には、もっと伝通院は近かったのではないでしょうか。

立花隆の事務所”猫ビル”

猫ビル

伝通院を出てすぐ前の小道を左手に1分ほど下っていくと、右手に大きな猫の顔が描かれた細長いビルが目に入ってきます。2021年に亡くなったジャーナリスト立花隆さんの事務所、通称”猫ビル”です。
ここに何万冊にも上る本が、部屋の壁全面を覆う本棚に所狭しと積まれている光景は、テレビや雑誌で何度も紹介されていました。

今はその部屋は、がらんともぬけの殻になっているようですが、外観は立花隆ご健全の頃と変わらず、大きな猫が目を見開いて、街の様子を観察しています。

伝通院とはあまり関係ありませんが、伝通院からほんの1分なので、地元の名物建物をのぞいてみてはいかがでしょうか。

永井荷風生育の地

永井荷風の生育の地

明治から昭和にかけて活躍した文豪 永井荷風が生まれ、幼少期を過ごしたのがこの小石川の地でした。

伝通院から徒歩5分の場所に位置し、馴染みのある伝通院を題材にした小説”伝通院”も書いています。

現在は、印と説明看板が建っています。

説明看板

伝通院の基本情報

観光基本情報

開園時間: 9:00~17:30
所要時間: 数十分程度
所在地: 〒112-0002 文京区小石川3-14-6
公共交通機関: 東京メトロ丸ノ内線・南北線 後楽園駅 徒歩10分、都営三田線 春日駅 徒歩10分
公式HP: 無量山 傳通院

(2022/5現在)

参考文献・サイト等

徳川家と傳通院(無量山傳通院)
庄内町人物伝 清河八郎(山形県庄内町観光情報サイト)
株式会社 浪越指圧アソシエイツ
新撰組の屯所:旧八木邸・旧前川邸は今でも新撰組の痕跡だらけ(やだ旅Japan)

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