藤田東湖護母致命の処

大河ドラマ『青天を衝け』第5話で描かれた藤田東湖(渡辺いっけい)の突然の死。その現場は、現在白山通りという、毎日車が途切れることのない大通りとなっています。ここには安政2年、水戸藩邸がありました。

水戸と言えば、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜(草彅剛)の出身地であり、慶喜の実父徳川斉昭(竹中直人)が第9代藩主となっていました。藤田東湖は、斉昭を水戸藩主に推挙した人物であり、その後も斉昭の信任は厚く、右腕となって斉昭を支えていました。

安政2年10月2日、世にいう安政の大地震が起き、水戸藩邸にいた藤田東湖はその建物の下敷きとなり圧死。徳川斉昭が泣き叫んで哀しみに暮れているシーンが描かれました。

しかし、現実はドラマよりもドラマなり。藤田東湖の死は、単純な自然災害による死ではなく、自らの命を投げ出して母親を救った結果でした。その説明が、現地にある看板に記されています。


藤田東湖護母致命の処

看板の説明

幕末の勤王家 藤田東湖(1806~55)は、水戸の藩士で、藩主徳川斉昭の信任も、きわめてあつかった。

弘化元年(1844)藩政改革に尽力したが、逆にそれが幕府の疑惑をまねき、斉昭は謹慎に、東湖は蟄居の身となった。後に許され、斉昭は藩政に復帰し、東湖は江戸詰めを命ぜられ、小石川の水戸上屋敷に住み、側用人となった。

安政2年(1855)大地震がおこり、藩邸が倒壊した。東湖は母を助けて外に出たが、母がその時、火鉢の火が危ないと、再び屋内に引きかえした。東湖は母を救い出そうと家にもどった時鴨居が落ちてきた。東湖は老婆を下に囲い、肩で鴨居を支え、かろうじて母を庭に出した。しかし、東湖は力つき、その下敷きとなって圧死した。

その場所は白山通りで、そこに記念碑があったが、拡幅工事のため道の中になってしまった。そこでその碑は、後楽園庭園内に移された。

現在、その場所にはこの説明看板が立っています。看板の東側は、まさに碑が立っていたという白山通り、西側はラクーアとなっています。毎日たくさんの人が通る大通りですが、この説明看板に気づく人はほとんどおらず、ひっそりと看板が立っています。

藤田東湖護母致命の処の基本情報

観光基本情報

営業時間: 常時
所在地: 文京区後楽1-3-40
公共交通機関: 都営地下鉄大江戸線「飯田橋」駅より徒歩約2分
JR総武線「飯田橋」駅より徒歩約8分
東京メトロ東西線・有楽町線・南北線「飯田橋」駅より徒歩約8分
東京メトロ丸の内線・南北線「後楽園」駅より徒歩約8分
公式HP: 藤田東湖護母致命の処

(2021/6現在)

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