大河ドラマ『青天を衝け』第16話で描かれた池田屋事件。これは、新撰組が歴史に名を刻む所以となった騒動です。この事件は、2回分に渡って入念に描かれた2005年大河ドラマ『新撰組!』を振り返りながら、その跡地を訪ねてみたいと思います。
池田屋事件はなぜ起きた?
池田屋事件とは、元治元年6月5日、京にいる過激攘夷志士たちが池田屋という旅館で、ある相談をしているところ、その情報をかぎつけた新撰組が乗り込んで戦闘となった騒動です。
その相談とは、新撰組に捕獲された炭問屋「枡屋」の主人・枡屋喜右衛を新撰組から奪還しようというものでした。それもこれも、その枡屋の主人とは、実は近江浪士・古高俊太郎の仮の姿であり、古高は当時勤王の志士たちの中心人物であった肥後脱藩・宮部鼎蔵と通じていたのです。古高は宮部のある陰謀の仲間であり、枡屋に武器・火薬を大量に隠し持っていたのでした。彼らのその陰謀とは、風の強い日に京の町に火を放ち、その混乱に乗じて、天皇を長州に連れ去ろうという驚愕のものでした。
新撰組に秘密が洩れる前に古高奪還をと、宮部鼎蔵ら数十名の勤王の志士らが池田屋に集まっていたのでした。
池田屋事件の戦闘
新撰組は、6月5日に宮部らが会合を開くという情報までは仕入れたものの、場所までは特定できていませんでした。そこでやむなく近藤勇(香取慎吾)隊と土方歳三(山本耕史)隊の二手にわかれ、御用改めを行いました。
当たりくじを引いたのは近藤隊。たった10名で池田屋に乗り込み、数十名の志士と戦いました。
建物内に入ったのは近藤、沖田総司(藤原竜也)、藤堂平助(中村勘九郎)、永倉新八(山口智充)の4人。残りは、逃げ延びた志士たちを外で待ち構えて戦いました。
池田屋跡地の看板には、建物内で戦う4人の配置と敵方の倒れた場所が記された見取り図が掲載されています。建物の面影は一切なくなってしまっているものの、その場所でこの見取り図を見るだけでも、当時の様子を感じ取る助けになり歴史好きにはたまらないのではないでしょうか。
その後、土方隊も到着して応戦。事前に新撰組が協力を求めていた会津藩らは長州を敵に回すことをおそれ、戦闘がほぼかたづいた頃に到着。土方は、手柄を横取りされないように、一歩も池田屋の中へは入れなかったと言われています。
池田屋事件の結末
この池田屋事件で、新撰組側は3名奥沢新三郎、安藤早太郎、新田革左衛門の死亡、藤堂平助が額に深傷をおい重傷。
一方の尊皇攘夷派は即死7名、捕縛23名。重症のためほどなく命を落としたものが多かったようです。
この事件のせいで、当時の実力派の志士の多数が殺されたため、明治維新が少なくとも1年は遅れたと言われています。
一方で、土方歳三の生涯を描いた長編小説「燃えよ剣」で、司馬遼太郎はこんな風に書いています。
「この変によってむしろ明治維新が早くきたとみる方が正しい。あるいはこの変がなければ、永久に薩長主導によるあの明治維新は来なかったかもしれない。革命には、革命派の狂暴な軍事行為が必要だが、当時の親京都派諸藩のいずれも、それへ飛躍する可能性も気分もなかった。・・・ひとり、36万石の長州藩という火薬庫が爆発したのである。」
池田屋事件跡地の現在
池田屋事件の跡地には、『池田屋騒動之址』という石碑が建っています。建物は2021年現在、居酒屋チェーン店はなの舞になっています。居酒屋以前は、日本の史跡3大がっかりに選びたくなるようなパチンコ店でしたが、現在の居酒屋は新撰組をテーマにしており、歴史好きを呼び込もうという意欲は感じられます。建物の外には、池田屋騒動の説明看板も立っています。
いつか、歴史好きの誰かの手に渡り、当時の建物を再現してくれないかと願うばかりです。
旅籠茶屋池田屋の基本情報
観覧時間: | 常時(居酒屋内に入る意味はあまりないので、外観や碑・説明を読むだけならばいつでもOK) |
所在地: | 〒604-8004 京都府京都市中京区 東入中島町82 申和三条ビル |
公共交通機関: | 京阪本線 三条駅 徒歩4分 地下鉄東西線 京都市役所前駅 徒歩5分 |
公式HP: | 池田屋跡(京都観光協会公式サイト) |
(2021/6現在)