1942-1945年

ルーズベルトの出した大統領令により、12万人もの日本人と日系アメリカ人が、終戦までの4年間、強制収容所に閉じ込められました。 1988年、レーガン大統領が、国としての過ちを認めました。

この歴史について、アメリカ国内博物館や観光地をめぐり、展示物、解説などから得た情報を中心にまとめています。この事件のゆかりの地も紹介しています。

日系アメリカ人の強制収容の概要

日系アメリカ人差別の時代背景

1941年12月7日(日本時間8日)、日本の真珠湾攻撃により、日本はアメリカの敵国となりました。

当時、日本で働く場所のない多くの貧困な日本人たちは、広い大地を求めてアメリカ西海岸に移住していました。日本人移民たちは、荒れ果てた大地を一生懸命耕しては農地に変え、アメリカを農作物豊かな国に育てた立役者です。ところが、その勤勉さから日本人はもともとアメリカでは差別の対象となっており、長いこと市民権を得ることもできませんでした。 それが真珠湾攻撃により、より一層風当たりが強いものとなっていきました。

フランクリン・ルーズベルトの大統領令9066

真珠湾攻撃の翌年1942年2月、時の大統領フランクリン・ルーズベルトが大統領令9066を出しました。
大統領令9066
大統領令9066/右下にフランクリンルーズベルトのサイン

これにより、75,000人の日系アメリカ人と、45,000人のアメリカ在住の日本人が強制収容所に入れられ、終戦までの4年もの間、日本人が日本人であるがゆえに人種差別を受けていました。

上の写真はアメリカ歴史博物館に展示されていた”大統領令9066”です。右下にFranklin Rooseveltとサインが入っています。

日本人の強制収容の始まり

この大統領令9066を受けて、町中に日本人排除命令が貼りだされ、役人が追い出して歩き回りました。

ポスター

街に貼り出された日本人排除命令

これまでの仕事、家、車、ペットなど、すべてのものをほんの数日間で手放すことを余儀なくされました。 破格な値段で叩き売らされたり、奪われたり、または置き去りにせざるを得ないような状況でした。

閉店セール

強制収容に伴う、日本人が経営するお店の閉店セール

強制収容所での生活

およそ12万人の日本人と日系アメリカ人は、10個の強制収容所に連れていかれました。下の地図の▲印のところにその収容所がありました。

収容所マップ

強制収容所の地図

どの収容所も人里離れた辺鄙なところにあり、ほとんどが荒れ果てた砂漠地帯や沼地に作られたものでした。

この何もない砂漠地帯などに、下のようなバラック小屋で複数の家族が一緒に暮らしていました。

バラック小屋

ハートマウンテン強制収容所に建てられたバラック小屋

この狭く仕切りもない空間に、12人ほどで住んでいました。壁は隙間だらけで、砂ぼこり、風や耐え難い寒さとの戦いだったようです。

下の写真は、マンザナー強制収容所の模型です。粗末な小屋が無数に建ち並んだ収容所は有刺鉄線で囲われていて、監視塔から監視され、常に銃口が向けられていました。

強制収容所

マンザナー収容所の模型。無数に立ち並ぶ粗末な小屋。

トイレやお風呂などは共同で標準以下の設備であり、食事は大行列に並ばないとありつけないような状況だったようです。

Bathroom配給の行列

共同のバスルーム(左)と、食事のための大行列(右)

ただ、野球道具などの展示もあり、意外にもレクリエーションもあったようです。
なんの罪もない日本人が、ただ日本人というだけで強制収容されたことは、とても悔しく許しがたい歴史ですが、 終戦間際の日本にいた日本人の方が、死はより身近なものに感じていたのかもしれません。

アメリカに忠誠を誓う”忠誠登録”

1943年、アメリカも戦況が悪化してくると、収容所にいる大人たちは日本かアメリカどちらか一つを選ぶ、苦渋の選択にせまられたのです。この質問票に答えなければなりませんでした。

質問票

収容所にまかれた質問票

問題となったのはNo.27と28の質問です。

忠誠登録

27.アメリカ軍のために喜んで働くか、

28.アメリカに無条件の忠誠を誓い、日本への忠誠を捨てるか。

これにYesと答えると、アメリカのために命を懸けて戦争に行かねばならず、

Noで返すと、収容所の中でも最も監視が厳しく隔離された、Tule Lake収容所に連れていかれました。

ワシントンDCにある日系アメリカ人記念碑には、10個の収容所の名前とそこに収容されていた人数が彫られています。 Tule Lakeは18,789と書いてあります。ほかの収容所は1万人前後の中、圧倒的な人数です。 最も過酷な収容所に、一番多くの日系アメリカ人が入れられていたことがわかります。

Tule LakeManzanar

アメリカのための日系人の戦死

質問票で27と28番を”Yes-Yes”と回答した人たちは、自分たちを人種差別したアメリカのために、命を懸けて戦争に出ていきました。

3万人以上もの日系人が、人種差別とも闘いながらアメリカのために戦いました。ハワイ在住の日系人で編成された第100歩兵大隊と、強制収容所でアメリカに忠誠を誓った日系人らから編成された第442部隊が有名です。

442部隊

日系人で編成された第442部隊

さすがに、太平洋戦争ではなく、ヨーロッパの戦線に送り込まれたようです。

この442部隊は、ドイツ軍と戦って全滅の危機に瀕したアメリカ人部隊”テキサス大隊”を救助する任を受けます。日系人の壮絶な戦いによりテキサス大隊の救出には成功しますが、211人のアメリカ人を救うために、216人の日系人が命を落としました。

後2010年にアメリカ議会は、遅ればせながらこの日系人部隊の多大なる貢献・勇敢ぶりを認め、アメリカ国内で最も名誉ある勲章”議会名誉黄金勲章”を贈りました。

メダルには、442部隊のモットー”Go for break(当たって砕けろ!)”が刻まれています。

メダルメダル

日系人に贈られた議会名誉黄金勲章裏表

アメリカの謝罪

戦後1960年代から70年代、日系アメリカ人のコミュニティが立ち上がり、この人種差別の問題と戦いました。

1976年、ジェラルド・フォード大統領がフランクリン・ルーズベルトの出した大統領令9066を撤回。

1988年ロナルド・レーガン大統領が、国としての過ちを認め、 第二次世界大戦中に強制収容所に入れられた、存命の日系アメリカ人全員に対し、2万ドルを支払うことを約束しました。

ceremony
署名文書

国としての過ちと日系アメリカ人への賠償を約束した文書の署名式(左)と、その文書(右)

写真の署名式でのレーガン大統領の言葉によると、強制収容された12万人のうち存命中の6万人に賠償金を支払うこと、お金では償えないけど名誉のために賠償すること、当時の行いは過ちであったことが述べられています。

ちなみに、国立アメリカ歴史博物館の展示の文書の署名(上の写真)の中には、どう見てもロナルド・レーガンと読めるものがありません。

公式ウェブサイトの方では、 レーガンの署名がありました。 なぜこの重要な部分を切ったのでしょうか・・。

最初の賠償金2万ドルと公式な謝罪文は、1990年10月にジョージ・H.W.ブッシュ大統領の時に送られています。
生存者の居場所の確認などに10年もの時がかかり、人によっては、クリントン大統領からの謝罪文を受け取っているようです。

アメリカ国内での展示

ワシントンDCにある国立アメリカ歴史博物館では、2017年2月から2018年12月まで、 “Japanese Americans and
World War II”の特別展示がされています。常設展でも、第100歩兵大隊と第442部隊の活躍について、戦争エリア第二次世界大戦のコーナーで展示されています。
また、ニューヨーク州にあるフランクリン・ルーズベルト大統領博物館でも特別展示をしています。

ロサンゼルスには、まさにこの歴史を説明・展示した全米日系人博物館があります。

この歴史を刻み、日系アメリカ人を記念した碑は、ワシントンDCに建てられています。

当時の収容所の一つ、Manzanar強制収容所は、跡地として保存されており、国立歴史地区として指定されています。

Manzanar

2010年、草彅剛くん主演のTBSドラマ”99年の愛~Japanese Americans”を見てから行くと、とてもよくわかります。

日系アメリカ人の強制収容がわかる観光地

https://i2.wp.com/yadakotour.work/wp-content/uploads/2019/06/DSC_3976_.jpg?fit=900%2C673&ssl=1https://i2.wp.com/yadakotour.work/wp-content/uploads/2019/06/DSC_3976_.jpg?resize=150%2C150&ssl=1やだこアメリカの歴史ロナルド・レーガン大統領1942-1945年 ルーズベルトの出した大統領令により、12万人もの日本人と日系アメリカ人が、終戦までの4年間、強制収容所に閉じ込められました。 1988年、レーガン大統領が、国としての過ちを認めました。 この歴史について、アメリカ国内博物館や観光地をめぐり、展示物、解説などから得た情報を中心にまとめています。この事件のゆかりの地も紹介しています。 日系アメリカ人の強制収容の概要 日系アメリカ人差別の時代背景 1941年12月7日(日本時間8日)、日本の真珠湾攻撃により、日本はアメリカの敵国となりました。 当時、日本で働く場所のない多くの貧困な日本人たちは、広い大地を求めてアメリカ西海岸に移住していました。日本人移民たちは、荒れ果てた大地を一生懸命耕しては農地に変え、アメリカを農作物豊かな国に育てた立役者です。ところが、その勤勉さから日本人はもともとアメリカでは差別の対象となっており、長いこと市民権を得ることもできませんでした。 それが真珠湾攻撃により、より一層風当たりが強いものとなっていきました。 フランクリン・ルーズベルトの大統領令9066 真珠湾攻撃の翌年1942年2月、時の大統領フランクリン・ルーズベルトが大統領令9066を出しました。 大統領令9066/右下にフランクリンルーズベルトのサイン これにより、75,000人の日系アメリカ人と、45,000人のアメリカ在住の日本人が強制収容所に入れられ、終戦までの4年もの間、日本人が日本人であるがゆえに人種差別を受けていました。 上の写真はアメリカ歴史博物館に展示されていた”大統領令9066”です。右下にFranklin Rooseveltとサインが入っています。 日本人の強制収容の始まり この大統領令9066を受けて、町中に日本人排除命令が貼りだされ、役人が追い出して歩き回りました。 街に貼り出された日本人排除命令 これまでの仕事、家、車、ペットなど、すべてのものをほんの数日間で手放すことを余儀なくされました。 破格な値段で叩き売らされたり、奪われたり、または置き去りにせざるを得ないような状況でした。 強制収容に伴う、日本人が経営するお店の閉店セール 強制収容所での生活 およそ12万人の日本人と日系アメリカ人は、10個の強制収容所に連れていかれました。下の地図の▲印のところにその収容所がありました。 強制収容所の地図 どの収容所も人里離れた辺鄙なところにあり、ほとんどが荒れ果てた砂漠地帯や沼地に作られたものでした。 この何もない砂漠地帯などに、下のようなバラック小屋で複数の家族が一緒に暮らしていました。 ハートマウンテン強制収容所に建てられたバラック小屋 この狭く仕切りもない空間に、12人ほどで住んでいました。壁は隙間だらけで、砂ぼこり、風や耐え難い寒さとの戦いだったようです。 下の写真は、マンザナー強制収容所の模型です。粗末な小屋が無数に建ち並んだ収容所は有刺鉄線で囲われていて、監視塔から監視され、常に銃口が向けられていました。 マンザナー収容所の模型。無数に立ち並ぶ粗末な小屋。 トイレやお風呂などは共同で標準以下の設備であり、食事は大行列に並ばないとありつけないような状況だったようです。 共同のバスルーム(左)と、食事のための大行列(右) ただ、野球道具などの展示もあり、意外にもレクリエーションもあったようです。 なんの罪もない日本人が、ただ日本人というだけで強制収容されたことは、とても悔しく許しがたい歴史ですが、 終戦間際の日本にいた日本人の方が、死はより身近なものに感じていたのかもしれません。 アメリカに忠誠を誓う”忠誠登録” 1943年、アメリカも戦況が悪化してくると、収容所にいる大人たちは日本かアメリカどちらか一つを選ぶ、苦渋の選択にせまられたのです。この質問票に答えなければなりませんでした。 収容所にまかれた質問票 問題となったのはNo.27と28の質問です。 27.アメリカ軍のために喜んで働くか、 28.アメリカに無条件の忠誠を誓い、日本への忠誠を捨てるか。 これにYesと答えると、アメリカのために命を懸けて戦争に行かねばならず、 Noで返すと、収容所の中でも最も監視が厳しく隔離された、Tule Lake収容所に連れていかれました。 ワシントンDCにある日系アメリカ人記念碑には、10個の収容所の名前とそこに収容されていた人数が彫られています。 Tule Lakeは18,789と書いてあります。ほかの収容所は1万人前後の中、圧倒的な人数です。 最も過酷な収容所に、一番多くの日系アメリカ人が入れられていたことがわかります。 アメリカのための日系人の戦死 質問票で27と28番を”Yes-Yes'と回答した人たちは、自分たちを人種差別したアメリカのために、命を懸けて戦争に出ていきました。 3万人以上もの日系人が、人種差別とも闘いながらアメリカのために戦いました。ハワイ在住の日系人で編成された第100歩兵大隊と、強制収容所でアメリカに忠誠を誓った日系人らから編成された第442部隊が有名です。 日系人で編成された第442部隊 さすがに、太平洋戦争ではなく、ヨーロッパの戦線に送り込まれたようです。 この442部隊は、ドイツ軍と戦って全滅の危機に瀕したアメリカ人部隊”テキサス大隊”を救助する任を受けます。日系人の壮絶な戦いによりテキサス大隊の救出には成功しますが、211人のアメリカ人を救うために、216人の日系人が命を落としました。 後2010年にアメリカ議会は、遅ればせながらこの日系人部隊の多大なる貢献・勇敢ぶりを認め、アメリカ国内で最も名誉ある勲章”議会名誉黄金勲章”を贈りました。 メダルには、442部隊のモットー”Go for break(当たって砕けろ!)”が刻まれています。 日系人に贈られた議会名誉黄金勲章裏表 アメリカの謝罪 戦後1960年代から70年代、日系アメリカ人のコミュニティが立ち上がり、この人種差別の問題と戦いました。 1976年、ジェラルド・フォード大統領がフランクリン・ルーズベルトの出した大統領令9066を撤回。 1988年ロナルド・レーガン大統領が、国としての過ちを認め、 第二次世界大戦中に強制収容所に入れられた、存命の日系アメリカ人全員に対し、2万ドルを支払うことを約束しました。 国としての過ちと日系アメリカ人への賠償を約束した文書の署名式(左)と、その文書(右) 写真の署名式でのレーガン大統領の言葉によると、強制収容された12万人のうち存命中の6万人に賠償金を支払うこと、お金では償えないけど名誉のために賠償すること、当時の行いは過ちであったことが述べられています。 ちなみに、国立アメリカ歴史博物館の展示の文書の署名(上の写真)の中には、どう見てもロナルド・レーガンと読めるものがありません。 公式ウェブサイトの方では、 レーガンの署名がありました。 なぜこの重要な部分を切ったのでしょうか・・。 最初の賠償金2万ドルと公式な謝罪文は、1990年10月にジョージ・H.W.ブッシュ大統領の時に送られています。 生存者の居場所の確認などに10年もの時がかかり、人によっては、クリントン大統領からの謝罪文を受け取っているようです。 アメリカ国内での展示 ワシントンDCにある国立アメリカ歴史博物館では、2017年2月から2018年12月まで、 “Japanese Americans and World War II”の特別展示がされています。常設展でも、第100歩兵大隊と第442部隊の活躍について、戦争エリア第二次世界大戦のコーナーで展示されています。 また、ニューヨーク州にあるフランクリン・ルーズベルト大統領博物館でも特別展示をしています。 ロサンゼルスには、まさにこの歴史を説明・展示した全米日系人博物館があります。 この歴史を刻み、日系アメリカ人を記念した碑は、ワシントンDCに建てられています。 当時の収容所の一つ、Manzanar強制収容所は、跡地として保存されており、国立歴史地区として指定されています。 2010年、草彅剛くん主演のTBSドラマ”99年の愛~Japanese Americans'を見てから行くと、とてもよくわかります。 日系アメリカ人の強制収容がわかる観光地一人旅でも100倍楽しめる アメリカ観光ナビ