Vietnam war

1956-1975年

ソ連が支援する北ベトナムと、アメリカが支援する南ベトナムの代理戦争です。 ケネディ大統領が軍事顧問派遣を拡大し、ジョンソン大統領が膨大なアメリカ軍を送り込み、ニクソン大統領が近隣国にまで戦争を広げました。 アメリカ軍被害が甚大になり、アメリカ撤退。1975年、南ベトナムのサイゴン陥落。

ベトナム戦争についてアメリカ国内の観光地や博物館をめぐり、展示物、解説などから得た情報を中心にまとめました。ベトナム戦争ゆかりの地も紹介しています。

ベトナム戦争の概要

ベトナム戦争は、なぜ起きたのか!?

第2次世界大戦中、ベトナムは日本の侵略に苦しんでいました。その頃のアメリカは、日本に苦戦するベトナムの国家主義者”ホーチミン”を支援していました。

第二次世界大戦が終わり日本から解放されると、元々フランスの植民地であったベトナムは、今度はフランスから独立しようと試みます。ベトナムはこの時、共産主義の力を借りようと模索しました。

これが、アメリカをも敵に回すこととなってしまうのです。

Hochiminh
ベトナム国家主義者であり、後の北ベトナム指導者のホーチミン

ホーチミンは“ベトミン”というベトナム独立同盟を作り、1945年、フランスからの独立を宣言しました。それにより、フランスとの戦い”インドシナ戦争”が始まります。

1954年、ディエンビエンフーの戦いでベトナム軍がアメリカの支援するフランス軍を撃破すると、ベトナム軍の勝利が大方の見方となりました。そこで、フランス政府はジュネーブ協定という停戦協定に署名することに合意します。ただし、このジュネーブ協定は、北緯17度を境にベトナムを南北に2分するものでした。北はホーチミン率いる共産主義、南は非共産主義となりました。

この2つに分かれたベトナムを一つにまとめるための選挙が、1956年に予定されていました。ところがアメリカ政府は、このまま南北を分裂させておき、南ベトナムに反共産主義の国家を作ろうとたくらんだのです。

1956年、南ベトナムではゴ・ディン・ディエムという人がリーダーに選ばれ、反共産主義の体制がますます強くなります。

一方、ベトナム共産主義はディエムに対抗してベトナムを統一するために、“南ベトナム解放民族戦線”(”ベトコン”と蔑称で呼ばれていました。)を立ち上げました。

この対立はどんどん緊迫したものとなり、1963年ついにディエムが暗殺されてしまいます。それが、アメリカの外交政策にも影響を与えていきます。

アメリカでケネディ大統領が暗殺される3週間ほど前でした。

アメリカ大統領のベトナム戦争への関与

10年以上続いたベトナム戦争には、5人もの大統領が関与し、ベトナム戦争を大きく動かしていきます。アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソン、フォード。それぞれの大統領がどのように関与し、ベトナム戦争がどのように動いていったか紹介します。

ドワイト・アイゼンハワー

アイゼンハワーは、軍事顧問と10億ドルの資金を南ベトナムに送りました。この段階では、アメリカの関与はまだ小規模で限定的なものでした。

Dwight Eisenhower

アイゼンハワー大統領と南ベトナムのゴ・ディン・ディエム首相が、1957年ワシントンDCで面会

ジョン・F・ケネディ

ケネディ政権に入り、アメリカの介入が加速していきます。1961年、アメリカがベトナム兵を直接トレーニングしたり、軍隊を指揮したりすることで合意しました。

これにより、1961年末時点では、900人程度しかいなかったアメリカ軍事顧問は、1962年末までには、3,200人に。そして、1963年ケネディー大統領暗殺時点では、16,000人にまで膨れ上がっていました。

JFK   news paper

ベトナム戦争への関与を強めるケネディ大統領と、それを報じる新聞

ただし、この段階ではまだ戦うためのアメリカ軍は送っていません。

リンドン・ジョンソン

1963年、ケネディ大統領暗殺により、副大統領であったジョンソンが大統領に就任しました。

swear

ケネディ大統領暗殺の直後、大統領専用機内で宣誓するジョンソン副大統領

ジョンソン大統領になり、ついにアメリカ軍がベトナム戦争へ派遣されることとなります。

1964年、アメリカ議会において、アメリカ軍がベトナムに配備されることとなるトンキン湾決議がなされました。この決定が、アメリカを泥沼に引きずり込んでいくこととなります。

テト攻勢

当初は、アメリカ国民のほとんどが、ベトナム戦争への介入拡大を支持していました。ところが、1960年代後半になるとアメリカ軍の犠牲がどんどん大きくなり、また、徴兵も世間に広まってくると、次第に戦争反対の声が大きくなっていきます。

その世論を北ベトナム軍は利用しました。アメリカを極限まで戦争に介入させ、ジョンソン政権を和平交渉に追いこもうと考えたのです。

1968年ベトナム正月(テト)、北ベトナム陸軍は南ベトナムの大都市を次々と攻撃しました。これがテト攻勢と呼ばれており、アメリカ軍と南ベトナム軍の犠牲は甚大なものとなりました。

Johnson

ベトナム戦争のニュースを聞き、頭を抱えるジョンソン大統領

リチャード・ニクソン

1969年1月には、ベトナム戦争撤退を公約にしたニクソン政権が誕生します。このとき、すでに55万人ものアメリカ兵がベトナムに派遣されていました。

ニクソンは、まずは北ベトナム軍の物質や軍の輸送経路である”ホーチミン・トレイル”を攻撃する作戦を立てました。
ホーチミン・トレイルは、カンボジアやラオスを通っているため、ベトナムからアメリカ軍を引き上げ始めるという公約の反面、実質は戦線拡大を図っているとも言えます。

ニクソンは、「これはカンボジア侵略ではない。敵が撤退し、物資の供給路が絶たれたら撤退する。」と説明しています。

Richard Nixon   map

カンボジアへの戦線拡大を説明するニクソン大統領と、その時使用した地図(ニクソン大統領ライブラリに展示されている)

1973年初め、アメリカはついにパリ条約に署名し、アメリカ軍と北ベトナムとの間に起きた戦争は終わりました。

ジェラルド・フォード

ベトナム戦争そのものは、サイゴンが陥落した1975年に正式に終結しました。

Ford

“ベトナム戦争へのアメリカの関与を終わらせた、フォード大統領”という展示もありました。

アメリカにとってのベトナム戦争

ベトナム戦争はアメリカ軍の犠牲が大きかったためか、ほかの戦争と比べてアメリカ国内で特別に扱われているように感じます。

アメリカ歴史博物館では、ベトナム戦争は広いスペースを使って紹介されています。ベトナム戦争の概要というより、アメリカ兵の犠牲に焦点をおいている印象です。

2017年11月からは、国立公文書博物館の企画展示でもベトナム戦争が取り上げられています。それぞれの大統領の関与の仕方などを中心に、映像のコーナーも充実しています。

ニクソン大統領ライブラリーでは、ニクソン政権時のカンボジアへの戦線拡大などが中心ではあるものの、背景も含めて分かりやすく概要が説明されています。

ベトナム戦争戦没者慰霊碑には、歩いても歩いても、戦没者の名前が刻まれています。 ”退役軍人の日(Veteran’s Day)”に行くと、多くの人が訪れ、手紙や遺品などを飾っていきます。多くのアメリカ人にとって、ベトナム戦争はまだ終わっていないのだなと実感します。

ベトナムで見るベトナム戦争(観光ツアー)

戦地となったベトナムにも、もちろんベトナム戦争を知ることができる場所がいくつかあります。

クチトンネル

アメリカはベトナム戦争の戦地になっていませんが、ベトナムには、戦地となった場所のひとつ、”クチトンネル”の一部が一般公開されています。全長250kmにもわたるトンネルの中でベトコン軍が生活し、米軍を苦しめた罠の数々などを目の当たりにすることができます。

Veltraで、ホーチミン市内からの日本語ガイドツアーが開催されています。

クチトンネル半日ツアー☆250kmに及ぶ秘密地下トンネルへ!<午前or午後/ホテルお迎え付(午前のみ)/現地ガイド(日本語可)>*無料WiFi搭載車​

戦争証跡博物館

ホーチミン市内には、ベトナムから見たベトナム戦争の博物館である”戦争証跡博物館”があります。

公式サイト:戦争証跡博物館

市内観光ツアーに参加して寄ることもできます。

【ホーチミン市内(午前/午後)観光ツアー】半日でさくっと巡るホーチミン<午前 or
午後/ホテル往復送迎付/現地ガイド(日本語可)/選べる解散場所>

ベトナム戦争がわかる観光地

https://i1.wp.com/yadakotour.work/wp-content/uploads/2019/06/DSC_4279_.jpg?fit=900%2C506&ssl=1https://i1.wp.com/yadakotour.work/wp-content/uploads/2019/06/DSC_4279_.jpg?resize=150%2C150&ssl=1やだこアメリカの歴史ジョン・F・ケネディ大統領1956-1975年 ソ連が支援する北ベトナムと、アメリカが支援する南ベトナムの代理戦争です。 ケネディ大統領が軍事顧問派遣を拡大し、ジョンソン大統領が膨大なアメリカ軍を送り込み、ニクソン大統領が近隣国にまで戦争を広げました。 アメリカ軍被害が甚大になり、アメリカ撤退。1975年、南ベトナムのサイゴン陥落。 ベトナム戦争についてアメリカ国内の観光地や博物館をめぐり、展示物、解説などから得た情報を中心にまとめました。ベトナム戦争ゆかりの地も紹介しています。 ベトナム戦争の概要 ベトナム戦争は、なぜ起きたのか!? 第2次世界大戦中、ベトナムは日本の侵略に苦しんでいました。その頃のアメリカは、日本に苦戦するベトナムの国家主義者”ホーチミン”を支援していました。 第二次世界大戦が終わり日本から解放されると、元々フランスの植民地であったベトナムは、今度はフランスから独立しようと試みます。ベトナムはこの時、共産主義の力を借りようと模索しました。 これが、アメリカをも敵に回すこととなってしまうのです。 ベトナム国家主義者であり、後の北ベトナム指導者のホーチミン ホーチミンは“ベトミン”というベトナム独立同盟を作り、1945年、フランスからの独立を宣言しました。それにより、フランスとの戦い”インドシナ戦争”が始まります。 1954年、ディエンビエンフーの戦いでベトナム軍がアメリカの支援するフランス軍を撃破すると、ベトナム軍の勝利が大方の見方となりました。そこで、フランス政府はジュネーブ協定という停戦協定に署名することに合意します。ただし、このジュネーブ協定は、北緯17度を境にベトナムを南北に2分するものでした。北はホーチミン率いる共産主義、南は非共産主義となりました。 この2つに分かれたベトナムを一つにまとめるための選挙が、1956年に予定されていました。ところがアメリカ政府は、このまま南北を分裂させておき、南ベトナムに反共産主義の国家を作ろうとたくらんだのです。 1956年、南ベトナムではゴ・ディン・ディエムという人がリーダーに選ばれ、反共産主義の体制がますます強くなります。 一方、ベトナム共産主義はディエムに対抗してベトナムを統一するために、“南ベトナム解放民族戦線”(”ベトコン”と蔑称で呼ばれていました。)を立ち上げました。 この対立はどんどん緊迫したものとなり、1963年ついにディエムが暗殺されてしまいます。それが、アメリカの外交政策にも影響を与えていきます。 アメリカでケネディ大統領が暗殺される3週間ほど前でした。 アメリカ大統領のベトナム戦争への関与 10年以上続いたベトナム戦争には、5人もの大統領が関与し、ベトナム戦争を大きく動かしていきます。アイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソン、フォード。それぞれの大統領がどのように関与し、ベトナム戦争がどのように動いていったか紹介します。 ドワイト・アイゼンハワー アイゼンハワーは、軍事顧問と10億ドルの資金を南ベトナムに送りました。この段階では、アメリカの関与はまだ小規模で限定的なものでした。 アイゼンハワー大統領と南ベトナムのゴ・ディン・ディエム首相が、1957年ワシントンDCで面会 ジョン・F・ケネディ ケネディ政権に入り、アメリカの介入が加速していきます。1961年、アメリカがベトナム兵を直接トレーニングしたり、軍隊を指揮したりすることで合意しました。 これにより、1961年末時点では、900人程度しかいなかったアメリカ軍事顧問は、1962年末までには、3,200人に。そして、1963年ケネディー大統領暗殺時点では、16,000人にまで膨れ上がっていました。     ベトナム戦争への関与を強めるケネディ大統領と、それを報じる新聞 ただし、この段階ではまだ戦うためのアメリカ軍は送っていません。 リンドン・ジョンソン 1963年、ケネディ大統領暗殺により、副大統領であったジョンソンが大統領に就任しました。 ケネディ大統領暗殺の直後、大統領専用機内で宣誓するジョンソン副大統領 ジョンソン大統領になり、ついにアメリカ軍がベトナム戦争へ派遣されることとなります。 1964年、アメリカ議会において、アメリカ軍がベトナムに配備されることとなるトンキン湾決議がなされました。この決定が、アメリカを泥沼に引きずり込んでいくこととなります。 テト攻勢 当初は、アメリカ国民のほとんどが、ベトナム戦争への介入拡大を支持していました。ところが、1960年代後半になるとアメリカ軍の犠牲がどんどん大きくなり、また、徴兵も世間に広まってくると、次第に戦争反対の声が大きくなっていきます。 その世論を北ベトナム軍は利用しました。アメリカを極限まで戦争に介入させ、ジョンソン政権を和平交渉に追いこもうと考えたのです。 1968年ベトナム正月(テト)、北ベトナム陸軍は南ベトナムの大都市を次々と攻撃しました。これがテト攻勢と呼ばれており、アメリカ軍と南ベトナム軍の犠牲は甚大なものとなりました。 ベトナム戦争のニュースを聞き、頭を抱えるジョンソン大統領 リチャード・ニクソン 1969年1月には、ベトナム戦争撤退を公約にしたニクソン政権が誕生します。このとき、すでに55万人ものアメリカ兵がベトナムに派遣されていました。 ニクソンは、まずは北ベトナム軍の物質や軍の輸送経路である”ホーチミン・トレイル”を攻撃する作戦を立てました。ホーチミン・トレイルは、カンボジアやラオスを通っているため、ベトナムからアメリカ軍を引き上げ始めるという公約の反面、実質は戦線拡大を図っているとも言えます。 ニクソンは、「これはカンボジア侵略ではない。敵が撤退し、物資の供給路が絶たれたら撤退する。」と説明しています。     カンボジアへの戦線拡大を説明するニクソン大統領と、その時使用した地図(ニクソン大統領ライブラリに展示されている) 1973年初め、アメリカはついにパリ条約に署名し、アメリカ軍と北ベトナムとの間に起きた戦争は終わりました。 ジェラルド・フォード ベトナム戦争そのものは、サイゴンが陥落した1975年に正式に終結しました。 'ベトナム戦争へのアメリカの関与を終わらせた、フォード大統領'という展示もありました。 アメリカにとってのベトナム戦争 ベトナム戦争はアメリカ軍の犠牲が大きかったためか、ほかの戦争と比べてアメリカ国内で特別に扱われているように感じます。 アメリカ歴史博物館では、ベトナム戦争は広いスペースを使って紹介されています。ベトナム戦争の概要というより、アメリカ兵の犠牲に焦点をおいている印象です。 2017年11月からは、国立公文書博物館の企画展示でもベトナム戦争が取り上げられています。それぞれの大統領の関与の仕方などを中心に、映像のコーナーも充実しています。 ニクソン大統領ライブラリーでは、ニクソン政権時のカンボジアへの戦線拡大などが中心ではあるものの、背景も含めて分かりやすく概要が説明されています。 ベトナム戦争戦没者慰霊碑には、歩いても歩いても、戦没者の名前が刻まれています。 ”退役軍人の日(Veteran's Day)”に行くと、多くの人が訪れ、手紙や遺品などを飾っていきます。多くのアメリカ人にとって、ベトナム戦争はまだ終わっていないのだなと実感します。 ベトナムで見るベトナム戦争(観光ツアー) 戦地となったベトナムにも、もちろんベトナム戦争を知ることができる場所がいくつかあります。 クチトンネル アメリカはベトナム戦争の戦地になっていませんが、ベトナムには、戦地となった場所のひとつ、”クチトンネル”の一部が一般公開されています。全長250kmにもわたるトンネルの中でベトコン軍が生活し、米軍を苦しめた罠の数々などを目の当たりにすることができます。 Veltraで、ホーチミン市内からの日本語ガイドツアーが開催されています。 クチトンネル半日ツアー☆250kmに及ぶ秘密地下トンネルへ!<午前or午後/ホテルお迎え付(午前のみ)/現地ガイド(日本語可)>*無料WiFi搭載車​ 戦争証跡博物館 ホーチミン市内には、ベトナムから見たベトナム戦争の博物館である”戦争証跡博物館”があります。 公式サイト:戦争証跡博物館 市内観光ツアーに参加して寄ることもできます。 【ホーチミン市内(午前/午後)観光ツアー】半日でさくっと巡るホーチミン<午前 or午後/ホテル往復送迎付/現地ガイド(日本語可)/選べる解散場所> ベトナム戦争がわかる観光地一人旅でも100倍楽しめる アメリカ観光ナビ