ベルリンの壁(Berlin Wall)
1961-1989年
東ドイツの中にポツンと孤立する西ベルリン。 自由主義を求め、西ベルリンに逃げ込む人々を防ぐため、東ベルリンを支配するソ連が、巨大な壁を作らせました。有刺鉄線に監視塔。 それでも命がけで、西ベルリンに逃げ込む人が絶えませんでした。 およそ30年後、ベルリンの壁崩壊。1991年ソ連崩壊。
ベルリンの壁について、アメリカ国内の観光地や博物館をめぐり、展示物、解説などから得た情報を中心にまとめました。ゆかりの地も紹介しています。
アメリカ国内にある、ベルリンの壁
アメリカには、思いのほかいろいろな場所でベルリンの壁に巡り合えます。 ワシントンDCでは、少なくとも3か所、ニュージアム(Newseum)、ロナルド・レーガン・ビル、アメリカ歴史博物館で観ることができます。
順番に、ニュージアム、ロナルド・レーガン・ビル、アメリカ歴史博物館に展示されているベルリンの壁
L.A.近郊では、少なくとも2か所。
レーガン大統領ライブラリー・博物館、ニクソン大統領ライブラリーおよび生家にあります。
順番に、レーガン大統領ライブラリー、ニクソン大統領ライブラリーに展示されているベルリンの壁
場所によって、だいぶ絵の雰囲気が違います。
ちなみに裏は、真っ白です。
ニュージアムに展示されているベルリンの壁の裏側
ベルリンの壁とは
ベルリンの壁は、何を分断していたのでしょうか??東ドイツと西ドイツでありません!
これはニュージアム(Newseum)で展示されているドイツの地図です。写真左上のグレーの地図が、ドイツ全体です。東ドイツと西ドイツに分かれています。
ベルリンの壁は、この境ではありません!
この地図上で赤枠“◀Area of detail”と書かれている部分がベルリンです。右下に拡大図があります。 この真ん中に縦に入っている緑の線がベルリンの壁です。
なぜベルリンに壁ができた!?
第二次世界大戦後、ベルリンは4つに分断されていました。東ベルリンをソビエト連邦が、西ベルリンを北から順にフランス、イギリス、アメリカが支配していました。
ベルリンは東ドイツの中にあるので、西ベルリンは共産主義の中にポツンとある自由主義のエリアだったわけです。
第二次世界大戦以降、東ベルリンからは、自由主義を求める人たちが300万人以上も西ベルリンへ逃げています。
ソ連のフルシチョフは、これ以上人が流出することを阻止するために、東ベルリンに、巨大なコンクリートの壁を建てさせたのです。
壁の上には有刺鉄線、さらにほかの東ドイツとの境にも、有刺鉄線を張り巡らせ、西ベルリンが孤立した状態となりました。 壁の横では、東ドイツが監視塔から監視しています。
ニュージアムやレーガン大統領ライブラリーには、その監視塔も再現されています。 有刺鉄線の壁を、それでも命がけで西ベルリンに逃げる人たちの映像は、ニュージアム、海軍博物館(The U.S. Navy Museum)の冷戦ギャラリーなどで流れています。
1963年、西ベルリンをケネディ大統領が訪問しています。 1500万人もの人々が詰めかけ、ケネディの有名な演説“Ich bin ein Berliner”に歓喜したようです。この映像も、いろいろな博物館で見ることができます。
ベルリンの壁の前で演説するケネディ大統領の映像@冷戦博物館
ベルリンの壁崩壊
それから再び東西ベルリンが行き来できるようになったのは、およそ30年も後の1989年11月9日です。
1987年、ソ連の指導者はフルシチョフからゴルバチョフへ、アメリカの大統領はケネディからレーガンに変わっています。
レーガンはベルリンの壁の前で、ゴルバチョフに対してメッセージを送っています。
”ミスターゴルバチョフ、この壁を壊しなさい。”
1989年ベルリンの壁崩壊。
ベルリンの壁が展示されている観光地
https://yadakotour.work/history/berlin/https://i0.wp.com/yadakotour.work/wp-content/uploads/2019/06/DSC_0556_.jpg?fit=900%2C506&ssl=1https://i0.wp.com/yadakotour.work/wp-content/uploads/2019/06/DSC_0556_.jpg?resize=150%2C150&ssl=1アメリカの歴史1961-1989年 東ドイツの中にポツンと孤立する西ベルリン。 自由主義を求め、西ベルリンに逃げ込む人々を防ぐため、東ベルリンを支配するソ連が、巨大な壁を作らせました。有刺鉄線に監視塔。 それでも命がけで、西ベルリンに逃げ込む人が絶えませんでした。 およそ30年後、ベルリンの壁崩壊。1991年ソ連崩壊。 ベルリンの壁について、アメリカ国内の観光地や博物館をめぐり、展示物、解説などから得た情報を中心にまとめました。ゆかりの地も紹介しています。 アメリカ国内にある、ベルリンの壁 アメリカには、思いのほかいろいろな場所でベルリンの壁に巡り合えます。 ワシントンDCでは、少なくとも3か所、ニュージアム(Newseum)、ロナルド・レーガン・ビル、アメリカ歴史博物館で観ることができます。 順番に、ニュージアム、ロナルド・レーガン・ビル、アメリカ歴史博物館に展示されているベルリンの壁 L.A.近郊では、少なくとも2か所。 レーガン大統領ライブラリー・博物館、ニクソン大統領ライブラリーおよび生家にあります。 順番に、レーガン大統領ライブラリー、ニクソン大統領ライブラリーに展示されているベルリンの壁 場所によって、だいぶ絵の雰囲気が違います。 ちなみに裏は、真っ白です。 ニュージアムに展示されているベルリンの壁の裏側 ベルリンの壁とは ベルリンの壁は、何を分断していたのでしょうか??東ドイツと西ドイツでありません! これはニュージアム(Newseum)で展示されているドイツの地図です。写真左上のグレーの地図が、ドイツ全体です。東ドイツと西ドイツに分かれています。 ベルリンの壁は、この境ではありません! この地図上で赤枠“◀Area of detail”と書かれている部分がベルリンです。右下に拡大図があります。 この真ん中に縦に入っている緑の線がベルリンの壁です。 なぜベルリンに壁ができた!? 第二次世界大戦後、ベルリンは4つに分断されていました。東ベルリンをソビエト連邦が、西ベルリンを北から順にフランス、イギリス、アメリカが支配していました。 ベルリンは東ドイツの中にあるので、西ベルリンは共産主義の中にポツンとある自由主義のエリアだったわけです。 第二次世界大戦以降、東ベルリンからは、自由主義を求める人たちが300万人以上も西ベルリンへ逃げています。 ソ連のフルシチョフは、これ以上人が流出することを阻止するために、東ベルリンに、巨大なコンクリートの壁を建てさせたのです。 壁の上には有刺鉄線、さらにほかの東ドイツとの境にも、有刺鉄線を張り巡らせ、西ベルリンが孤立した状態となりました。 壁の横では、東ドイツが監視塔から監視しています。 ニュージアムやレーガン大統領ライブラリーには、その監視塔も再現されています。 有刺鉄線の壁を、それでも命がけで西ベルリンに逃げる人たちの映像は、ニュージアム、海軍博物館(The U.S. Navy Museum)の冷戦ギャラリーなどで流れています。 1963年、西ベルリンをケネディ大統領が訪問しています。 1500万人もの人々が詰めかけ、ケネディの有名な演説“Ich bin ein Berliner”に歓喜したようです。この映像も、いろいろな博物館で見ることができます。 ベルリンの壁の前で演説するケネディ大統領の映像@冷戦博物館 ベルリンの壁崩壊 それから再び東西ベルリンが行き来できるようになったのは、およそ30年も後の1989年11月9日です。 1987年、ソ連の指導者はフルシチョフからゴルバチョフへ、アメリカの大統領はケネディからレーガンに変わっています。 レーガンはベルリンの壁の前で、ゴルバチョフに対してメッセージを送っています。 ”ミスターゴルバチョフ、この壁を壊しなさい。” 1989年ベルリンの壁崩壊。 ベルリンの壁が展示されている観光地やだこ 55yam.adako@gmail.comAdministratorやだ旅
コメントを残す