1962年

アメリカが優に射程圏内に入るミサイル基地を、ソ連がキューバに作りました。 それを知ったケネディ大統領は、ソ連と核戦争をも辞さない覚悟で交渉。 キューバに入ろうとするソ連の船を、海上封鎖し、一触即発の危機を免れました。

キューバ危機についてアメリカ国内の観光地や博物館をめぐり、展示物、解説などから得た情報を中心にまとめました。関連する観光地も紹介しています。

キューバ危機の時代背景

キューバ危機とは、冷戦時代にキューバの核ミサイルをめぐって、アメリカとソ連が核戦争寸前にまで至った危機です。

その舞台となるキューバは、1960年代初め、共産主義の指導者のフィデル・カストロが大きな力を持っていました。


フィデル・カストロ

キューバは海を挟んでフロリダのすぐ近く、たった90マイルの距離にあります。90マイルとは、東京-名古屋間よりも近い距離です。 東京から見て、静岡県焼津市くらいに共産主義がいる感覚でなのです。

そのため、カストロ政権は、ヨーロッパやアジアの共産主義国よりも、ずっとずっとアメリカの脅威でした。

そして、そのカストロを操っていたのが、ソ連の指導者ニキータ・フルシチョフです。

フルシチョフ
ニキータ・フルシチョフ

アメリカは、フルシチョフを失脚、あわよくば殺害しようと考えていました。

毒入り葉巻などを用意して、フルシチョフを排除する極秘の計画があり、後のチャーチ委員会では少なくとも6つの陰謀が明らかにされています。

キューバ危機はなぜ起こった?

1962年10月16日、とある写真がケネディ大統領の下に報告されました。ソ連がキューバに作ったミサイル基地の写真です。 アメリカの偵察機U-2が、キューバのサン・クリストバル上空で撮影したものです。

missile map
キューバのミサイル基地を撮影した写真

アメリカ歴史博物館には、この写真を拡大してじっくり見られるコーナーがあります。素人目にはいくら拡大してもよくわかりませんが、80万人以上のアメリカ人を一瞬にして殺傷する能力があることを示しているそうです。

このミサイル基地についてソ連は始め、キューバを攻撃から守るための基地だと主張し、ミサイルの存在を認めませんでした。

アメリカの対応

10月20日、ケネディ大統領は、すぐに国家安全保障会議執行委員会(エクスコム(ExComm))を立ち上げました。

Cuba day 5-6
キューバ危機の5、6日目の様子@海軍博物館

上の写真の左側が、ホワイトハウスで行われていたExCommの会議の様子です。21人のメンバーの中には、ジョンソン副大統領、スティーブンソン国連大使、ロバート・ケネディー司法長官もいます。

ここでまずは武力攻撃ではなく、ソ連の船を封じ込めることから提案されます。

10月21日、ソ連の船をキューバの周りからしめ出すため、アメリカは180隻の船をキューバの周りに送り込みました(上の写真右側)。

さらに、ソ連の領空にも核兵器を積んだB-52爆弾も待機させて、攻撃の準備をしました。

10月22日、ケネディはテレビでこの非常事態を国民に伝えました。

そしてフルシチョフに対しては、キューバにあるミサイルを撤去するように求め、さもなければ核戦争をも辞さないという構えを見せました。

Cuba day 7
ケネディ大統領が、国民に対してメッセージを送る様子

10月23日、ケネディはキューバへの攻撃兵器輸送を阻止する宣言に署名しました。


ケネディ大統領が宣言に署名する様子@国立アメリカ歴史博物館

アメリカとソ連の駆け引き

翌10月24日、キューバに向かってきたソ連の船を、アメリカ軍が海上で迎えました。

ソ連の船の大半はアメリカ軍の海上封鎖により引き返したものの、それでも何隻かは突き進みました。

Cuba day 9

フルシチョフは、アメリカがキューバを攻撃しないことを約束するならば、キューバからのミサイルを撤去するとケネディにメッセージを送りました。

また、当時アメリカがトルコに配備していた類似の中距離ミサイルも撤去することを求めてきました。

アメリカにとってのキューバと同じように、ソ連にとって隣国トルコのミサイルは脅威だったのです。


苦渋の判断を迫られるケネディ大統領の後姿

ケネディ大統領は、悩んだ挙句の合意。

核戦争になりかねない一触即発の危機は、この13日間の緊迫した交渉の中で回避されたのでした。

アメリカ国内での展示

キューバ危機は、アメリカ歴史博物館のほんの一角に展示されています。

Cuban crisis
アメリカ歴史博物館の展示
アメリカ歴史博物館でも十分おもしろいですが、キューバ危機に関しては、海軍博物館(The U.S. Navy Museum)の冷戦ギャラリーの方が情報量が多くて、オススメです。
キューバのミサイル基地が発見されてから解決するまでの13日間を写真で紹介した展示もあります。

緊迫の13日間の写真は、JFK Presidential Library and Museumの出典なので、そのウェブサイトから鮮明な写真を見ることができます。JFKライブラリーは、保管している貴重なドキュメントの、全電子化を進めています。現時点でも、たくさんの貴重な情報が現地に行かずにみられます。

キューバ危機がわかる観光地

https://i1.wp.com/yadakotour.work/wp-content/uploads/2019/06/DSC_4188_.jpg?fit=900%2C506&ssl=1https://i1.wp.com/yadakotour.work/wp-content/uploads/2019/06/DSC_4188_.jpg?resize=150%2C150&ssl=1やだこアメリカの歴史ジョン・F・ケネディ大統領1962年 アメリカが優に射程圏内に入るミサイル基地を、ソ連がキューバに作りました。 それを知ったケネディ大統領は、ソ連と核戦争をも辞さない覚悟で交渉。 キューバに入ろうとするソ連の船を、海上封鎖し、一触即発の危機を免れました。 キューバ危機についてアメリカ国内の観光地や博物館をめぐり、展示物、解説などから得た情報を中心にまとめました。関連する観光地も紹介しています。 キューバ危機の時代背景 キューバ危機とは、冷戦時代にキューバの核ミサイルをめぐって、アメリカとソ連が核戦争寸前にまで至った危機です。 その舞台となるキューバは、1960年代初め、共産主義の指導者のフィデル・カストロが大きな力を持っていました。 フィデル・カストロ キューバは海を挟んでフロリダのすぐ近く、たった90マイルの距離にあります。90マイルとは、東京-名古屋間よりも近い距離です。 東京から見て、静岡県焼津市くらいに共産主義がいる感覚でなのです。 そのため、カストロ政権は、ヨーロッパやアジアの共産主義国よりも、ずっとずっとアメリカの脅威でした。 そして、そのカストロを操っていたのが、ソ連の指導者ニキータ・フルシチョフです。 ニキータ・フルシチョフ アメリカは、フルシチョフを失脚、あわよくば殺害しようと考えていました。 毒入り葉巻などを用意して、フルシチョフを排除する極秘の計画があり、後のチャーチ委員会では少なくとも6つの陰謀が明らかにされています。 キューバ危機はなぜ起こった? 1962年10月16日、とある写真がケネディ大統領の下に報告されました。ソ連がキューバに作ったミサイル基地の写真です。 アメリカの偵察機U-2が、キューバのサン・クリストバル上空で撮影したものです。 キューバのミサイル基地を撮影した写真 アメリカ歴史博物館には、この写真を拡大してじっくり見られるコーナーがあります。素人目にはいくら拡大してもよくわかりませんが、80万人以上のアメリカ人を一瞬にして殺傷する能力があることを示しているそうです。 このミサイル基地についてソ連は始め、キューバを攻撃から守るための基地だと主張し、ミサイルの存在を認めませんでした。 アメリカの対応 10月20日、ケネディ大統領は、すぐに国家安全保障会議執行委員会(エクスコム(ExComm))を立ち上げました。 キューバ危機の5、6日目の様子@海軍博物館 上の写真の左側が、ホワイトハウスで行われていたExCommの会議の様子です。21人のメンバーの中には、ジョンソン副大統領、スティーブンソン国連大使、ロバート・ケネディー司法長官もいます。 ここでまずは武力攻撃ではなく、ソ連の船を封じ込めることから提案されます。 10月21日、ソ連の船をキューバの周りからしめ出すため、アメリカは180隻の船をキューバの周りに送り込みました(上の写真右側)。 さらに、ソ連の領空にも核兵器を積んだB-52爆弾も待機させて、攻撃の準備をしました。 10月22日、ケネディはテレビでこの非常事態を国民に伝えました。 そしてフルシチョフに対しては、キューバにあるミサイルを撤去するように求め、さもなければ核戦争をも辞さないという構えを見せました。 ケネディ大統領が、国民に対してメッセージを送る様子 10月23日、ケネディはキューバへの攻撃兵器輸送を阻止する宣言に署名しました。 ケネディ大統領が宣言に署名する様子@国立アメリカ歴史博物館 アメリカとソ連の駆け引き 翌10月24日、キューバに向かってきたソ連の船を、アメリカ軍が海上で迎えました。 ソ連の船の大半はアメリカ軍の海上封鎖により引き返したものの、それでも何隻かは突き進みました。 フルシチョフは、アメリカがキューバを攻撃しないことを約束するならば、キューバからのミサイルを撤去するとケネディにメッセージを送りました。 また、当時アメリカがトルコに配備していた類似の中距離ミサイルも撤去することを求めてきました。 アメリカにとってのキューバと同じように、ソ連にとって隣国トルコのミサイルは脅威だったのです。 苦渋の判断を迫られるケネディ大統領の後姿 ケネディ大統領は、悩んだ挙句の合意。 核戦争になりかねない一触即発の危機は、この13日間の緊迫した交渉の中で回避されたのでした。 アメリカ国内での展示 キューバ危機は、アメリカ歴史博物館のほんの一角に展示されています。 アメリカ歴史博物館の展示 アメリカ歴史博物館でも十分おもしろいですが、キューバ危機に関しては、海軍博物館(The U.S. Navy Museum)の冷戦ギャラリーの方が情報量が多くて、オススメです。 キューバのミサイル基地が発見されてから解決するまでの13日間を写真で紹介した展示もあります。 緊迫の13日間の写真は、JFK Presidential Library and Museumの出典なので、そのウェブサイトから鮮明な写真を見ることができます。JFKライブラリーは、保管している貴重なドキュメントの、全電子化を進めています。現時点でも、たくさんの貴重な情報が現地に行かずにみられます。 キューバ危機がわかる観光地一人旅でも100倍楽しめる アメリカ観光ナビ