朝鮮戦争(Korean War)ってどんな戦争?わかりやすく説明します
1950-1953年
北緯38度で南北に二分されている朝鮮半島。北朝鮮と韓国がにらみ合う結果となった朝鮮戦争は、ソ連・中国が支援する北朝鮮と、アメリカ・国連軍が支援する韓国の代理戦争でした。1953年に停戦。今なお板門店では、両軍がにらみ合っています。再び始まった交渉は、進むのか!?
朝鮮戦争について、アメリカ国内の観光地や博物館をめぐり、展示物、解説などから得た情報を中心にまとめました。朝鮮戦争のゆかりの地も紹介しています。
朝鮮戦争の概要
北緯38度線とは?
第二次世界大戦の終わりに伴い、日本から返還された朝鮮半島は自由になることなく、今度はソ連とアメリカの監視下に置かれました。
両国はそれぞれの領域をきっちり分け、1948年頃には、実質的に南北2つの国家が立ち上がっている状態でした。
南は国民から選ばれた李承晩大統領が率いる民主主義国家 vs 北は金日成を主席とした親ソ共産主義の独裁政権国家。 その境界線が、“北緯38度線”でした。
朝鮮戦争の勃発と戦況(様々な国の思惑)
1950年6月25日、北がこの境界線を越えて南領域に侵入してきました。これをきっかけに、アメリカやソ連を中心とした国々が加勢し、米ソの冷戦を過熱させる代理戦争となったのです。
北側の思惑
北朝鮮の金日成は、国を再び共産主義で統一させようと、南側への侵略を始めました。
北朝鮮の共産主義化を歓迎するソ連は、それを経済的・軍事的に支援しました。
さらに数か月後には、中国も参戦し、何百万もの軍勢を北側に送って加勢しました。
南側への支援
一方、南側の共産主義化をなんとか阻止したいトルーマン大統領率いる米国は、アメリカ兵を南側に送り込み、さらには国連に協力を呼び掛け連合軍を立ち上げて反撃しました。
しかし、韓国軍はアメリカや連合軍の協力は得たものの、すでにひどい混乱状態となっており、北軍からの勢いは止まりませんでした。
国立アメリカ歴史博物館の朝鮮戦争のコーナーにある展示
南北の攻防戦
連合軍は朝鮮半島の南東の一角、釜山の近くにまでに押しやられてしまいます(上図の一番下の緑線)。その混乱に乗じて、多くの一般市民は韓国側に逃げ込みました。
その後、今度は国連軍が、北朝鮮軍を鴨緑江(Yalu River)まで押し返します(上図の一番上の緑線)。
鴨緑江とは、中国と北朝鮮との国境となっている川です。そのため、今度は中国の猛反撃が連合軍を襲い、再び長津湖まで押し返され、ここで数週間の戦いを繰り広げています(38度より少し下の緑の線)。
過酷な戦場
この戦場となった朝鮮半島は、夏は気温40℃湿度90%の猛暑、冬はたびたびの氷点下という過酷な地です。
特に初めての冬を迎えた長津湖の戦いでは、アメリカ軍は北朝鮮の極寒に適応した装備が整っていませんでした。 ワシントンDCにある朝鮮戦争戦没者慰霊碑も、この極寒の中での壮絶な戦いが表現されています。
この戦いでアメリカ軍は、実は戦火よりも、寒さとの戦いで多くの兵士を亡くしました。
朝鮮戦争戦没者慰霊碑
トルーマンとマッカーサー
当時、韓国側を支援する連合軍を率いていたのが、戦後日本の司令官としても有名なマッカーサー元帥です。
このマッカーサーは米国内で人気がありましたが、トルーマン大統領とは何かと対立していました。
VS
マッカーサー元帥とトルーマン大統領
1951年、マッカーサーは、中国への戦争拡大を強く唱えます。それは、再び世界大戦を引き起こすリスクがあるものでした。
これを機に4月11日、トルーマン大統領はマッカーサーを解任。日本に原爆を落とす指示を出した大統領は、朝鮮戦争拡大には反対だったようです。
終戦ではなく、停戦へ
1951年夏頃には、朝鮮戦争は血まみれの泥沼状態に陥っていました。両局とも、さらなる甚大な犠牲を払わなければ勝てない状況であったことから、和平交渉が始まりました。
ところが、交渉には2年もの年月がかかり、その間にも戦いはずっと続きました。
停戦時にはアメリカは15万人以上の兵士が、南北朝鮮・中国でもそれぞれおよそ100万人もの兵士のが犠牲となっていました。また、朝鮮半島に住む200万人もの一般市民も犠牲者となりました。
米ワシントンDCにあるアメリカ歴史博物館の説明では、アメリカ兵がずいぶんと犠牲になったような印象を受けますが、朝鮮戦争戦没者慰霊碑に彫られている下の石碑を見ると、アメリカの要請に応じて参戦した連合軍の方が、10倍以上の犠牲を払っていることがわかります。
死者: アメリカ軍 54,246人、連合軍 628,833人
行方不明者: アメリカ軍 8,177人、連合軍 470,267人
捕虜: アメリカ軍 7,140人、連合軍 92,970人
負傷者: アメリカ軍 103,284人、連合軍 1,064,453人
朝鮮戦争戦没者慰霊碑
1953年7月、停戦。アメリカ、中国、北朝鮮の代表が停戦協定に署名しました。韓国のみがそれを拒否しています。
戦いは終わっても、何も解決はしていません。停戦により、南北に新しく境界線が引かれることとなりました。それがいわゆる”軍事境界線“であり、板門店が位置する場所です(上の地図の赤い線)。
北緯38度付近、2.5マイルの非武装地帯によって、北朝鮮と韓国は今なお二分されています。
2019年現在、北朝鮮と韓国はいまだ戦争をいったん休戦しているという状態にあります。 今も北緯38度線付近では、南北軍がにらみ合い、連合国軍が監視をしている状況です。
2018年、この板門店で南北首脳が握手を交わし、それぞれの領地に足を踏み入れ、南北首脳対話を行いました。今後の動きにますます目が離せません。
朝鮮戦争を知るには、アメリカ歴史博物館の展示が、コンパクトにわかりやすくまとめられています。
特に、朝鮮戦争のコーナーで上映されているビデオは、10分ほどの立ち見ですが、足を止めてみるべき作品です。
韓国で見る朝鮮戦争(観光ツアー)
この軍事境界線から南北2㎞に渡る非武装地帯(DMZ)を観光するツアーがあります。停戦中の今なお緊迫した空気を体感でき、歴史を学ぶことができます。
朝鮮戦争がわかる観光地
https://yadakotour.work/history/korea/https://i0.wp.com/yadakotour.work/wp-content/uploads/2019/06/IMG_20161125_170918_.jpg?fit=900%2C675&ssl=1https://i0.wp.com/yadakotour.work/wp-content/uploads/2019/06/IMG_20161125_170918_.jpg?resize=150%2C150&ssl=1アメリカの歴史1950-1953年 北緯38度で南北に二分されている朝鮮半島。北朝鮮と韓国がにらみ合う結果となった朝鮮戦争は、ソ連・中国が支援する北朝鮮と、アメリカ・国連軍が支援する韓国の代理戦争でした。1953年に停戦。今なお板門店では、両軍がにらみ合っています。再び始まった交渉は、進むのか!? 朝鮮戦争について、アメリカ国内の観光地や博物館をめぐり、展示物、解説などから得た情報を中心にまとめました。朝鮮戦争のゆかりの地も紹介しています。 朝鮮戦争の概要 北緯38度線とは? 第二次世界大戦の終わりに伴い、日本から返還された朝鮮半島は自由になることなく、今度はソ連とアメリカの監視下に置かれました。 両国はそれぞれの領域をきっちり分け、1948年頃には、実質的に南北2つの国家が立ち上がっている状態でした。 南は国民から選ばれた李承晩大統領が率いる民主主義国家 vs 北は金日成を主席とした親ソ共産主義の独裁政権国家。 その境界線が、“北緯38度線”でした。 朝鮮戦争の勃発と戦況(様々な国の思惑) 1950年6月25日、北がこの境界線を越えて南領域に侵入してきました。これをきっかけに、アメリカやソ連を中心とした国々が加勢し、米ソの冷戦を過熱させる代理戦争となったのです。 北側の思惑 北朝鮮の金日成は、国を再び共産主義で統一させようと、南側への侵略を始めました。 北朝鮮の共産主義化を歓迎するソ連は、それを経済的・軍事的に支援しました。 さらに数か月後には、中国も参戦し、何百万もの軍勢を北側に送って加勢しました。 南側への支援 一方、南側の共産主義化をなんとか阻止したいトルーマン大統領率いる米国は、アメリカ兵を南側に送り込み、さらには国連に協力を呼び掛け連合軍を立ち上げて反撃しました。 しかし、韓国軍はアメリカや連合軍の協力は得たものの、すでにひどい混乱状態となっており、北軍からの勢いは止まりませんでした。 国立アメリカ歴史博物館の朝鮮戦争のコーナーにある展示 南北の攻防戦 連合軍は朝鮮半島の南東の一角、釜山の近くにまでに押しやられてしまいます(上図の一番下の緑線)。その混乱に乗じて、多くの一般市民は韓国側に逃げ込みました。 その後、今度は国連軍が、北朝鮮軍を鴨緑江(Yalu River)まで押し返します(上図の一番上の緑線)。 鴨緑江とは、中国と北朝鮮との国境となっている川です。そのため、今度は中国の猛反撃が連合軍を襲い、再び長津湖まで押し返され、ここで数週間の戦いを繰り広げています(38度より少し下の緑の線)。 過酷な戦場 この戦場となった朝鮮半島は、夏は気温40℃湿度90%の猛暑、冬はたびたびの氷点下という過酷な地です。 特に初めての冬を迎えた長津湖の戦いでは、アメリカ軍は北朝鮮の極寒に適応した装備が整っていませんでした。 ワシントンDCにある朝鮮戦争戦没者慰霊碑も、この極寒の中での壮絶な戦いが表現されています。 この戦いでアメリカ軍は、実は戦火よりも、寒さとの戦いで多くの兵士を亡くしました。 朝鮮戦争戦没者慰霊碑 トルーマンとマッカーサー 当時、韓国側を支援する連合軍を率いていたのが、戦後日本の司令官としても有名なマッカーサー元帥です。 このマッカーサーは米国内で人気がありましたが、トルーマン大統領とは何かと対立していました。 VS マッカーサー元帥とトルーマン大統領 1951年、マッカーサーは、中国への戦争拡大を強く唱えます。それは、再び世界大戦を引き起こすリスクがあるものでした。 これを機に4月11日、トルーマン大統領はマッカーサーを解任。日本に原爆を落とす指示を出した大統領は、朝鮮戦争拡大には反対だったようです。 終戦ではなく、停戦へ 1951年夏頃には、朝鮮戦争は血まみれの泥沼状態に陥っていました。両局とも、さらなる甚大な犠牲を払わなければ勝てない状況であったことから、和平交渉が始まりました。 ところが、交渉には2年もの年月がかかり、その間にも戦いはずっと続きました。 停戦時にはアメリカは15万人以上の兵士が、南北朝鮮・中国でもそれぞれおよそ100万人もの兵士のが犠牲となっていました。また、朝鮮半島に住む200万人もの一般市民も犠牲者となりました。 米ワシントンDCにあるアメリカ歴史博物館の説明では、アメリカ兵がずいぶんと犠牲になったような印象を受けますが、朝鮮戦争戦没者慰霊碑に彫られている下の石碑を見ると、アメリカの要請に応じて参戦した連合軍の方が、10倍以上の犠牲を払っていることがわかります。 死者: アメリカ軍 54,246人、連合軍 628,833人 行方不明者: アメリカ軍 8,177人、連合軍 470,267人 捕虜: アメリカ軍 7,140人、連合軍 92,970人 負傷者: アメリカ軍 103,284人、連合軍 1,064,453人 朝鮮戦争戦没者慰霊碑 1953年7月、停戦。アメリカ、中国、北朝鮮の代表が停戦協定に署名しました。韓国のみがそれを拒否しています。 戦いは終わっても、何も解決はしていません。停戦により、南北に新しく境界線が引かれることとなりました。それがいわゆる'軍事境界線'であり、板門店が位置する場所です(上の地図の赤い線)。 北緯38度付近、2.5マイルの非武装地帯によって、北朝鮮と韓国は今なお二分されています。 2019年現在、北朝鮮と韓国はいまだ戦争をいったん休戦しているという状態にあります。 今も北緯38度線付近では、南北軍がにらみ合い、連合国軍が監視をしている状況です。 2018年、この板門店で南北首脳が握手を交わし、それぞれの領地に足を踏み入れ、南北首脳対話を行いました。今後の動きにますます目が離せません。 朝鮮戦争を知るには、アメリカ歴史博物館の展示が、コンパクトにわかりやすくまとめられています。 特に、朝鮮戦争のコーナーで上映されているビデオは、10分ほどの立ち見ですが、足を止めてみるべき作品です。 韓国で見る朝鮮戦争(観光ツアー) この軍事境界線から南北2㎞に渡る非武装地帯(DMZ)を観光するツアーがあります。停戦中の今なお緊迫した空気を体感でき、歴史を学ぶことができます。 南北境界線(DMZ)ツアー 朝鮮戦争がわかる観光地やだこ 55yam.adako@gmail.comAdministratorやだ旅
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