ローザ・パークスとは、”公民権運動の母”とも呼ばれる、生涯を人種差別との闘いに捧げたアフリカ系アメリカ人女性です。1955年、ローザ・パークスが人種差別の強いアラバマ州モンゴメリーで、バスの座席を白人に譲らなかったことにより、人種差別法違反の罪で逮捕されました。これがきっかけで黒人たちが立ち上がり、キング牧師らを指導者として公民権運動の運気が高まっていきます。
ローザ・パークスの生い立ち
ローザ・パークスは、1913年2月4日アラバマ州タスキーギで、ローザ・ルイーズ・マッコーリーとして生まれました。2歳の時、同州パインレベルに引っ越し、母方の祖父母と一緒に暮らし始めました。ローザの母は学校の先生であったため、11歳までは母親が家で勉強を教えていました。11歳になった時、ローザはアラバマ州モンゴメリーで叔母と一緒に生活しながら、女子のための工業学校で職業訓練コースと学問コースで学びました。ローザは学校の教室の掃除をすることで、授業料を支払っていました。その後、ブッカーTワシントン高校に進学しますが、病気になった母の世話をするため、退学を余儀なくされました。
1932年、全米有色人種協会(NAACP)で活動していた理髪店のレイモンド・パークスと結婚しました。 レイモンドは、学校で学び直したいというローザの願いを受け入れ、1933年、ローザは高校に戻り勉強して卒業しました。
その後、ローザ自身もNAACPに参加して活動するうちに、人種差別を義務付ける“ジム・クロウ法”に対して、問題意識を持つようになっていきました。
バスボイコット事件
1955年、仕事帰りのバスで白人に座席を有るように運転手から命令され、それを拒んだことにより、“ジム・クロウ法”違反の罪で現行犯逮捕。これを機に、モンゴメリーの黒人が立ち上がり、バスボイコットによりジム・クロウ法への抗議の機運が高まります。結果は、ジム・クロウ法は合衆国憲法に違憲との判決が出て、黒人が勝利しました。
詳細は、こちらをご覧ください。
しかし、判決後、ローザはそれまでの職場を解雇され、夫と共に仕事を求めてバージニア州へ、その後はミシガン州に移り住みました。1965年までは裁縫の仕事をした後、1988年まで議員ジョンコンヤーズの秘書を務めました。1980年にローザ・パークス奨学基金を、1987年にはローザ・レイモンド・パークス自己開発協会を創設しました。
また、1992年には自伝を、1995年に回想録を出版しています。
ローザ・パークスの功績
ローザ・パークスは、その生涯を公民権運動に捧げました。 ローザ・パークスが逮捕されたその場所に建てられたローザ・パークス博物館は、1998年に竣工され、2000年にオープンしました。また、1999年には米国議会が議会の金メダルを授与しました。
2005年10月24日に彼女が亡くなった際には、市民権と人権の向上への貢献が認められ、米国歴代大統領と同じように、国会議事堂のロタンダに棺が運び込まれて多くの人に追悼されるという、栄誉が与えられました。
国会議事堂の銅像
米国国会議事堂には、多くの議員や偉人たちの銅像が建てられています。国会議事堂の見学ツアーに参加すると、案内人が特に有名な像の説明をしてくれます。その像の中に、ローザ・パークスも入っています。
ローザ・パークスは、国会議事堂に初めて全身像が作られたアフリカ系アメリカ人です。そのおよそ20年前に建てられた、同じく黒人で公民権運動の指導者マーティンルーサーキングジュニアの像は、胸像です。
国会議事堂に建てられているキング牧師の胸像
国会議事堂に飾られているローザ・パークスの像は、逮捕された日にローザ・パークスが着ていたものが再現されています。写真に基づいて、丸いつばのない帽子、眼鏡、ワンピースの上にコート、ひも靴を身につけ、手にはハンドバッグを握っています。岩のようなものに座っており、これはバスの座席を譲ることを拒否したことを表現し、顔の表情と姿勢は、内面の強さ、尊厳、決意、決意を表しているそうです。
像は台座を含めて高さおよそ2.7メートル、銅像の重さは272㎏、台座の重さは953㎏です。台座には、「ローザ・パークス/ 1913–2005」と刻まれています。
国会議事堂に建てられているローザ・パークスの像
https://yadakotour.work/history/rosaparksbio/https://i1.wp.com/yadakotour.work/wp-content/uploads/2019/06/DSC_4423_.jpg?fit=900%2C506&ssl=1https://i1.wp.com/yadakotour.work/wp-content/uploads/2019/06/DSC_4423_.jpg?resize=150%2C150&ssl=1やだこアメリカの歴史ローザ・パークスとは、”公民権運動の母”とも呼ばれる、生涯を人種差別との闘いに捧げたアフリカ系アメリカ人女性です。1955年、ローザ・パークスが人種差別の強いアラバマ州モンゴメリーで、バスの座席を白人に譲らなかったことにより、人種差別法違反の罪で逮捕されました。これがきっかけで黒人たちが立ち上がり、キング牧師らを指導者として公民権運動の運気が高まっていきます。
ローザ・パークスの生い立ち
ローザ・パークスは、1913年2月4日アラバマ州タスキーギで、ローザ・ルイーズ・マッコーリーとして生まれました。2歳の時、同州パインレベルに引っ越し、母方の祖父母と一緒に暮らし始めました。ローザの母は学校の先生であったため、11歳までは母親が家で勉強を教えていました。11歳になった時、ローザはアラバマ州モンゴメリーで叔母と一緒に生活しながら、女子のための工業学校で職業訓練コースと学問コースで学びました。ローザは学校の教室の掃除をすることで、授業料を支払っていました。その後、ブッカーTワシントン高校に進学しますが、病気になった母の世話をするため、退学を余儀なくされました。
1932年、全米有色人種協会(NAACP)で活動していた理髪店のレイモンド・パークスと結婚しました。 レイモンドは、学校で学び直したいというローザの願いを受け入れ、1933年、ローザは高校に戻り勉強して卒業しました。
その後、ローザ自身もNAACPに参加して活動するうちに、人種差別を義務付ける“ジム・クロウ法”に対して、問題意識を持つようになっていきました。
バスボイコット事件
1955年、仕事帰りのバスで白人に座席を有るように運転手から命令され、それを拒んだことにより、“ジム・クロウ法”違反の罪で現行犯逮捕。これを機に、モンゴメリーの黒人が立ち上がり、バスボイコットによりジム・クロウ法への抗議の機運が高まります。結果は、ジム・クロウ法は合衆国憲法に違憲との判決が出て、黒人が勝利しました。
詳細は、こちらをご覧ください。
しかし、判決後、ローザはそれまでの職場を解雇され、夫と共に仕事を求めてバージニア州へ、その後はミシガン州に移り住みました。1965年までは裁縫の仕事をした後、1988年まで議員ジョンコンヤーズの秘書を務めました。1980年にローザ・パークス奨学基金を、1987年にはローザ・レイモンド・パークス自己開発協会を創設しました。
また、1992年には自伝を、1995年に回想録を出版しています。
ローザ・パークスの功績
ローザ・パークスは、その生涯を公民権運動に捧げました。 ローザ・パークスが逮捕されたその場所に建てられたローザ・パークス博物館は、1998年に竣工され、2000年にオープンしました。また、1999年には米国議会が議会の金メダルを授与しました。
2005年10月24日に彼女が亡くなった際には、市民権と人権の向上への貢献が認められ、米国歴代大統領と同じように、国会議事堂のロタンダに棺が運び込まれて多くの人に追悼されるという、栄誉が与えられました。
国会議事堂の銅像
米国国会議事堂には、多くの議員や偉人たちの銅像が建てられています。国会議事堂の見学ツアーに参加すると、案内人が特に有名な像の説明をしてくれます。その像の中に、ローザ・パークスも入っています。
ローザ・パークスは、国会議事堂に初めて全身像が作られたアフリカ系アメリカ人です。そのおよそ20年前に建てられた、同じく黒人で公民権運動の指導者マーティンルーサーキングジュニアの像は、胸像です。
国会議事堂に建てられているキング牧師の胸像
国会議事堂に飾られているローザ・パークスの像は、逮捕された日にローザ・パークスが着ていたものが再現されています。写真に基づいて、丸いつばのない帽子、眼鏡、ワンピースの上にコート、ひも靴を身につけ、手にはハンドバッグを握っています。岩のようなものに座っており、これはバスの座席を譲ることを拒否したことを表現し、顔の表情と姿勢は、内面の強さ、尊厳、決意、決意を表しているそうです。
像は台座を含めて高さおよそ2.7メートル、銅像の重さは272㎏、台座の重さは953㎏です。台座には、「ローザ・パークス/ 1913–2005」と刻まれています。
国会議事堂に建てられているローザ・パークスの像やだこ
55yam.adako@gmail.comAdministratorやだ旅
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