1950年代後半~
第二次世界大戦が終わり、核開発競争等が進んだ冷戦中、アメリカとソ連はあらゆる分野で競争をしていました。科学技術の分野でも、宇宙開発競争が熱を帯びていました。
序盤、ソ連がことごとく人類初の偉業を成し遂げ圧勝しますが、アメリカは人類月面着陸を目標に立て、1969年その悲願を達成させました。
その後各国も宇宙開発に乗りだし、今も新しい技術に凌ぎを削っています。

アメリカ国内の関連する観光地や博物館をめぐり、展示、解説などから得た情報を中心にまとめています。関連する観光地等も紹介しています。

宇宙開発競争の概要

冷戦中、アメリカとソ連はあらゆる分野で競争していました。宇宙開発競争もそのうちの一つです。

宇宙開発競争は、アイゼンハワー政権の時、1950年代後半から始まっています。そのころ、宇宙開発は“一番乗り”が重要なポイントでした。人工衛星、月への無人飛行、人類の宇宙飛行、女性の宇宙飛行、人類の宇宙歩行、これらはすべてソ連が一番初めに成し遂げています。これにより、アメリカはソ連に追いつけ追い越せで、国を挙げて宇宙開発に取り組んでいきます。

当時ケネディー大統領は、「我々は遅れをとっている」と認め、国の最重要課題の一つとして宇宙開発を掲げました。

人類初の宇宙飛行

1961年4月、ソ連が初めて人類宇宙飛行を成し遂げました。「地球は青かった」で有名な、言わずと知れた”ユーリ・ガガーリン”です。

この写真は、その当時のソ連の有人宇宙飛行計画”Vostok”の宇宙飛行士たちです。右から3人目がガガーリンです。
ソ連Vostok
ソ連Vostok計画の宇宙飛行士たちとそのサイン@航空宇宙博物館(本館)

このソ連の成功の直後、ケネディー大統領は『アメリカがソ連より先になし得ることは何か』、とNASAに問いました。そして、その答えから一つのゴールを作ります。

『1960年代に、アメリカは人類を月に送る』

ケネディ大統領
1960年代、人湯月面着陸を宣言するケネディ大統領

アメリカの人類宇宙飛行プログラム

マーキュリー計画(Project Mercury)

マーキュリー計画

ケネディが1960年代の人類月面着陸を宣言したちょうどそのころ、アメリカ国内では”マーキュリー計画”が進んでいました。アメリカで初めての、人類宇宙飛行プログラムです。

1959年、このマーキュリー計画により、アメリカ初の7人の宇宙飛行士”マーキュリーセブン”が選ばれています。

マーキュリーセブン
マーキュリーセブン

ガガーリンが宇宙へ行った歴史的な日から10か月後、この中の一人、ジョン・グレンがアメリカ人で初めて地球を周遊しました。1962年2月20日、アメリカ人初の地球周遊す。

フレンドシップセブン(Friendship 7)

そのときの宇宙船”フレンドシップセブン”がワシントンDCの国立航空宇宙博物館に展示されています。

フレンドシップ7   
航空宇宙博物館に展示されているFriendship7(左)と、Frendship7をのぞき込むケネディ大統領の写真(JFK Library公式サイトより)(右)

ケネディ大統領も査察に来て覗きこんだ宇宙船です。ケネディ大統領の手が置かれた左側にうっすらとfrendship7の文字が見えます。実物を見ると、写真よりはもう少ししっかりと文字が確認できます。

意外とちいさな印象ですが、実際乗り込むのは大変だったようで、ジョン・グレンがNASAの同僚に手伝ってもらいながら乗り込んでいる写真もあります(下の写真左)。帰還後、グレンはケネディと一緒に、フロリダのココアビーチをパレードしたようです(下の写真右)。

ジョン・グレンは、その後1964年にNASAを離れて上院議員になりましたが、1998年、77歳で再び宇宙に戻っています。その時の宇宙船は、フレンドシップセブンの何十倍も大きいスペースシャトル”ディスカバリー”です。このときの飛行は、日本人宇宙飛行士の向井千秋さんも搭乗しています。

Discovery
航空宇宙博物館(別館)に展示されているスペースシャトル”ディスカバリー”

ディスカバリーは引退後、ワシントンDCダレス国際空港の近くにある、航空宇宙博物館(別館)の方に展示されています。

アポロ11号の月面着陸

アポロ11号

アメリカの人類宇宙飛行プログラムは、マーキュリー、ジェミニ、アポロ計画と進み、1969年、ついに人類が初めて月に降り立ちました。言わずと知れたアポロ11号です。

「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」
ニール・アームストロング、静かの基地より、1969年7月20日

アームストロング、コリンズ、オルドリンの3人の宇宙飛行士が、8年前の1961年にケネディが立てた悲願を達成させました。

コリンズがコマンドモジュールの中で待機している間に、アームストロングとオルドリンが2時間15分の月の探検をしたそうです。(ここまで来て、コリンズは月面着陸させてもらえなかった!?)

この時、21キログラムもの月の石を持って帰ってきています。この月の石も、航空宇宙博物館(本館)で展示され、誰でも触れることができます。

月の石
航空宇宙博物館(本館)に展示されている月の石

スミソニアン航空宇宙博物館(本館)の”Moon Race(月開発競争)”のコーナーには、こんなことが書かれています。

『多くのアメリカ人は、人類の月面着陸をもって、宇宙開発競争が終わったと捉えた。そして、新しい段階に進み、スペースシャトルの開発やロボット探査機を火星などに送り込むことを新たな目標にし始めた。

ソ連は、宇宙ステーションを作り人類が長期に滞在できるようにすること、火星や金星に自動探査機を送り込むことなど、長期的な目標を立てており、アメリカとの宇宙開発競争は終わっていないと考えていた。』

がんばればソ連に勝てそうな目標を一方的に立て、それを達成させて勝ち逃げしようというアメリカ側の発想は、なんともアメリカ人らしいです。

日本人の宇宙飛行

ソ連は1978年、客人宇宙飛行士の受け入れを始めました。第1号は、チェコスロバキアのパイロットです。当初の目的は社会主義国との友好関係を築くことだったようですが、どんどん広がり、1996年までには、19か国の代表がこのプログラムで宇宙飛行しています。日本の国旗もあります。

Diplomacy in Space   始めて宇宙飛行した日本人
ソ連宇宙開発プログラムの協力国(左)と、日本人初の宇宙飛行をした秋山豊寛さん(右)

その隣には、日本人の写真が展示されています。実は、初めてお金を出して宇宙飛行したのが、日本人ジャーナリストだったそうです。費用$1200万ドル(十数億円)。展示には名前は出ていませんでしたが、1990年、当時TBS社員だった秋山豊寛さんです。NASAの宇宙飛行士として初めて宇宙飛行した毛利衛さんよりも早く、宇宙飛行した初めての日本人の方でした。

宇宙開発競争がわかる観光地

https://i2.wp.com/yadakotour.work/wp-content/uploads/2019/09/DSC_6187_.jpg?fit=900%2C506&ssl=1https://i2.wp.com/yadakotour.work/wp-content/uploads/2019/09/DSC_6187_.jpg?resize=150%2C150&ssl=1やだこアメリカの歴史1950年代後半~ 第二次世界大戦が終わり、核開発競争等が進んだ冷戦中、アメリカとソ連はあらゆる分野で競争をしていました。科学技術の分野でも、宇宙開発競争が熱を帯びていました。 序盤、ソ連がことごとく人類初の偉業を成し遂げ圧勝しますが、アメリカは人類月面着陸を目標に立て、1969年その悲願を達成させました。 その後各国も宇宙開発に乗りだし、今も新しい技術に凌ぎを削っています。 アメリカ国内の関連する観光地や博物館をめぐり、展示、解説などから得た情報を中心にまとめています。関連する観光地等も紹介しています。 宇宙開発競争の概要 冷戦中、アメリカとソ連はあらゆる分野で競争していました。宇宙開発競争もそのうちの一つです。 宇宙開発競争は、アイゼンハワー政権の時、1950年代後半から始まっています。そのころ、宇宙開発は“一番乗り”が重要なポイントでした。人工衛星、月への無人飛行、人類の宇宙飛行、女性の宇宙飛行、人類の宇宙歩行、これらはすべてソ連が一番初めに成し遂げています。これにより、アメリカはソ連に追いつけ追い越せで、国を挙げて宇宙開発に取り組んでいきます。 当時ケネディー大統領は、「我々は遅れをとっている」と認め、国の最重要課題の一つとして宇宙開発を掲げました。 人類初の宇宙飛行 1961年4月、ソ連が初めて人類宇宙飛行を成し遂げました。「地球は青かった」で有名な、言わずと知れた”ユーリ・ガガーリン”です。 この写真は、その当時のソ連の有人宇宙飛行計画'Vostok'の宇宙飛行士たちです。右から3人目がガガーリンです。 ソ連Vostok計画の宇宙飛行士たちとそのサイン@航空宇宙博物館(本館) このソ連の成功の直後、ケネディー大統領は『アメリカがソ連より先になし得ることは何か』、とNASAに問いました。そして、その答えから一つのゴールを作ります。 『1960年代に、アメリカは人類を月に送る』 1960年代、人湯月面着陸を宣言するケネディ大統領 アメリカの人類宇宙飛行プログラム マーキュリー計画(Project Mercury) ケネディが1960年代の人類月面着陸を宣言したちょうどそのころ、アメリカ国内では”マーキュリー計画”が進んでいました。アメリカで初めての、人類宇宙飛行プログラムです。 1959年、このマーキュリー計画により、アメリカ初の7人の宇宙飛行士”マーキュリーセブン”が選ばれています。 マーキュリーセブン ガガーリンが宇宙へ行った歴史的な日から10か月後、この中の一人、ジョン・グレンがアメリカ人で初めて地球を周遊しました。1962年2月20日、アメリカ人初の地球周遊す。 フレンドシップセブン(Friendship 7) そのときの宇宙船'フレンドシップセブン'がワシントンDCの国立航空宇宙博物館に展示されています。     航空宇宙博物館に展示されているFriendship7(左)と、Frendship7をのぞき込むケネディ大統領の写真(JFK Library公式サイトより)(右) ケネディ大統領も査察に来て覗きこんだ宇宙船です。ケネディ大統領の手が置かれた左側にうっすらとfrendship7の文字が見えます。実物を見ると、写真よりはもう少ししっかりと文字が確認できます。 意外とちいさな印象ですが、実際乗り込むのは大変だったようで、ジョン・グレンがNASAの同僚に手伝ってもらいながら乗り込んでいる写真もあります(下の写真左)。帰還後、グレンはケネディと一緒に、フロリダのココアビーチをパレードしたようです(下の写真右)。 ジョン・グレンは、その後1964年にNASAを離れて上院議員になりましたが、1998年、77歳で再び宇宙に戻っています。その時の宇宙船は、フレンドシップセブンの何十倍も大きいスペースシャトル'ディスカバリー'です。このときの飛行は、日本人宇宙飛行士の向井千秋さんも搭乗しています。 航空宇宙博物館(別館)に展示されているスペースシャトル'ディスカバリー' ディスカバリーは引退後、ワシントンDCダレス国際空港の近くにある、航空宇宙博物館(別館)の方に展示されています。 アポロ11号の月面着陸 アメリカの人類宇宙飛行プログラムは、マーキュリー、ジェミニ、アポロ計画と進み、1969年、ついに人類が初めて月に降り立ちました。言わずと知れたアポロ11号です。 「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍である」 ニール・アームストロング、静かの基地より、1969年7月20日 アームストロング、コリンズ、オルドリンの3人の宇宙飛行士が、8年前の1961年にケネディが立てた悲願を達成させました。 コリンズがコマンドモジュールの中で待機している間に、アームストロングとオルドリンが2時間15分の月の探検をしたそうです。(ここまで来て、コリンズは月面着陸させてもらえなかった!?) この時、21キログラムもの月の石を持って帰ってきています。この月の石も、航空宇宙博物館(本館)で展示され、誰でも触れることができます。 航空宇宙博物館(本館)に展示されている月の石 スミソニアン航空宇宙博物館(本館)の'Moon Race(月開発競争)'のコーナーには、こんなことが書かれています。 『多くのアメリカ人は、人類の月面着陸をもって、宇宙開発競争が終わったと捉えた。そして、新しい段階に進み、スペースシャトルの開発やロボット探査機を火星などに送り込むことを新たな目標にし始めた。 ソ連は、宇宙ステーションを作り人類が長期に滞在できるようにすること、火星や金星に自動探査機を送り込むことなど、長期的な目標を立てており、アメリカとの宇宙開発競争は終わっていないと考えていた。』 がんばればソ連に勝てそうな目標を一方的に立て、それを達成させて勝ち逃げしようというアメリカ側の発想は、なんともアメリカ人らしいです。 日本人の宇宙飛行 ソ連は1978年、客人宇宙飛行士の受け入れを始めました。第1号は、チェコスロバキアのパイロットです。当初の目的は社会主義国との友好関係を築くことだったようですが、どんどん広がり、1996年までには、19か国の代表がこのプログラムで宇宙飛行しています。日本の国旗もあります。     ソ連宇宙開発プログラムの協力国(左)と、日本人初の宇宙飛行をした秋山豊寛さん(右) その隣には、日本人の写真が展示されています。実は、初めてお金を出して宇宙飛行したのが、日本人ジャーナリストだったそうです。費用$1200万ドル(十数億円)。展示には名前は出ていませんでしたが、1990年、当時TBS社員だった秋山豊寛さんです。NASAの宇宙飛行士として初めて宇宙飛行した毛利衛さんよりも早く、宇宙飛行した初めての日本人の方でした。 宇宙開発競争がわかる観光地一人旅でも100倍楽しめる アメリカ観光ナビ