1941-1945年
真珠湾攻撃により、日米開戦。戦場はどんどん日本本土に近づき、硫黄島や沖縄で両軍莫大な犠牲を払うも終わりの見えない戦争。1945年8月、米大統領トルーマンの決断により原爆投下。15日、終戦。
アメリカでは、太平洋戦争はどのように説明されているのか?
アメリカ国内の関連する観光地や博物館をめぐり、そこで展示されていたもの、解説などから得た情報を中心にまとめています。関連する観光地等も紹介しています。
日本とアメリカの見る「太平洋戦争」の違い
日本で太平洋戦争というと、ほとんどの人が「原爆投下」「天皇陛下の玉音放送」「特攻隊」「空襲」・・・など、終戦間際の日本の悲劇を思い浮かべると思います。
アメリカでは、全くその逆です。(自国の悲劇に焦点を当てるという意味では同じかもしれません。)
アメリカで太平洋戦争の展示を見ると、とにかく真珠湾という文字が目に留まります”。
ここでは、太平洋戦争がアメリカでどのように展示されているかを紹介します。
アメリカが描く真珠湾攻撃
真珠湾攻撃の概要
1941年12月7日午前7:55(現地時間)、日本海軍の航空部隊がハワイオアフ島の真珠湾を攻撃。
真珠湾攻撃が起きたのは、とある静かな日曜日の朝でした。オアフ島の上空に日本の軍用機が無数に飛び交いました。
そこは、米軍の飛行場、病院などが集まる米軍基地。200機近い日本軍の爆弾機、魚雷、急降下爆撃機などが、次々と米軍の船や航空機を攻撃していきました。
真珠湾攻撃を受けたハワイ真珠湾の模型
その1時間後、第二次攻撃。午前10時頃までには、18隻の米軍の船が破壊されて油の流出した海に沈み、真珠湾は火の海に包まれていました。
300機以上の航空機が破壊され、2,500人近いアメリカ人が死亡、1,000人以上がけがをしました。
翌日、フランクリン・ルーズベルト大統領は日本との開戦を宣言。
日本との開戦を宣言するフランクリン・ルーズベルト(左)、ルーズベルトの原稿(右)
太平洋戦争を始めた大統領”フランクリン・ルーズベルト”
国立アメリカ歴史博物館では、フランクリン・ルーズベルトは英雄のように紹介されています。
対照的に、悪の枢軸と言わんばかりに、日本の東条英機、ドイツのヒットラー、イタリアのムッソリーニがその横で並んでいます。その隣の映像では、日本との開戦を伝えるルーズベルトのスピーチが流れています。
フランクリン・ルーズベルト大統領(左)と、東条英機や大日本帝国について書かれたパネル(右)
太平洋戦争の戦況
太平洋戦争の戦場
1941年12月7日、Pearl Harborで太平洋戦争勃発(地図の右端)。その後、戦場はどんどん日本に近づくばかりです。
WWIIメモリアルに戦地として刻まれている硫黄島と沖縄”
ワシントンDCにある第二次世界大戦メモリアルには、戦地となった地名が刻まれています。真珠湾を筆頭に、ソロモン諸島などを経て、硫黄島、沖縄、そして日本と続きます。
たくさんの戦闘機が、航空宇宙博物館には展示されています。小説『永遠の0』や映画『風立ちぬ』でも有名な零戦は、スミソニアンの航空宇宙博物館の本館に展示されています。
零戦
硫黄島の戦い
硫黄島の戦いは、1945年2月19日から3月26日まで、およそ7万人のアメリカ軍と2万1千人の日本軍と戦いでした。
硫黄島は両国にとって戦略的にとても重要な場所だったため、両軍は莫大な犠牲を払いながらもこの戦い続けました。
アメリカ兵は、2万人近くが負傷、7千人が戦死。そして日本兵は、戦いが終わった時には1,100人しか生存者がいなかったそうです。
ワシントンDCに隣接するアーリントンにある”硫黄島メモリアル”
壮絶な戦いの末、最後の力を振り絞って硫黄島に勝利の旗を立てる米兵の写真や像は、あまりに有名です。
硫黄島はなぜ重要な場所だったのか!?
硫黄島は、日本とマリアナ諸島にあるアメリカ軍基地を結ぶ真ん中あたりに位置する島です。
1944年の夏頃には、アメリカのB29爆撃機は、マリアナ諸島にある米軍基地から日本本土を攻撃して戻ってくるだけの飛距離を確保するようになっていました。
そこで、多くの爆撃機が日本本土に向かって飛んでいきましたが、戦闘機による護衛のない多くの爆撃機が、日本の反撃に遭い海に落ちていきました。
日本本土への距離が近い硫黄島をアメリカが占領したことで、アメリカの戦闘機はミサイルを積んだ爆撃機を護衛することができるようになり、また、攻撃を受けた爆撃機は硫黄島に避難することができるようになったのです。
アメリカ軍にとってこの硫黄島の戦いの勝利は、爆撃作戦に膨大な利益をもたらしたと考えられています。現に終戦までの間に、2,400機のB29がここから離陸していきました。
アメリカから見る”終戦直前”
開戦時の大統領フランクリン・ルーズベルトは、大人になってからの小児まひで重度の身体障害を負っていました。第二次世界大戦という非常時に、車いす生活で異例の4期にもわたる長期政権を築いていましたが、1945年4月に長年患っていた病により他界。日本に原爆を落としたことで有名な、トルーマンに変わります。
その頃には、日本の大きな都市は大半が破壊されており、ほとんど残っていませんでした。それでも日本は降伏せず、決死の抵抗を見せています。
アメリカは、終戦間際の硫黄島と沖縄戦で莫大な犠牲を払い、さらには、日本の特攻隊による米軍船の攻撃により、たった2ヶ月で過去2年間の戦死者を上回る犠牲を払っています。
1945年7月、トルーマンは原爆投下という、物議を醸す決断を下しました。1945年8月6日、一つ目の原子爆弾が広島に投下されました。そして同年8月9日、二つ目の原爆が長崎に投下。
特攻隊
アメリカ軍になんとか大打撃を与えたい日本は、爆弾を確実に米軍の船まで運ぶための案内役として、自爆攻撃のパイロットたちを送り始めました。
2800回の神風特攻隊は、34隻の船を沈め、288の米軍の戦力に打撃を与えました。
特攻機”桜花”
トルーマンの決断”原爆投下”
1945年8月9日(長崎原爆投下の日)、トルーマンはこのように国民にメッセージを出しています。
「私たちは、予告なしに我々を攻撃し、アメリカの捕虜を飢えさせ、叩き、侮辱した者たちに対して 爆弾を使用する。私たちはこれを、苦悩の戦争を終わらせるために、そして何百万人ものアメリカの若者たちの命を守るために使用する。」
それは、戦時中にマンハッタンプロジェクトで秘密裏に開発されたものでした。
広島に原爆を落としたB29”Enola Gay”が、スミソニアンの航空宇宙博物館の別館に展示されています。
広島に原爆を落としたB29”Enola Gay”
そして、そのEnola Gayから広島に落とされた原爆”Little Boy”の模型が、海軍博物館に展示されています。
広島に落とされた原爆の模型
こんなに迫力のある威圧的なものが日本の上空を飛んでいたのかと思う大きな爆撃機と、こんなもので広島が死の海と化してしまったのかと思うほどの小さな爆弾です。
終戦
昭和天皇の玉音放送の一部が、国立アメリカ歴史博物館に展示されています。
「敵は新しく最も残虐な爆弾を使い始め、その破壊力は本当に計り知れない多くの無実の人々の犠牲を払うものである・・それこそが、共同宣言(無条件降伏)を受諾するように私が日本政府に命令した理由だ。」
国立アメリカ歴史博物館に展示されている昭和天皇の写真
原爆を落とした国と落とされた国、相反する二つの国のトップが「自国の民を守るため」という同じ動機を使い、結果的には原爆により戦争が終わったという事実は何とも言い難い皮肉です。
国立アメリカ歴史博物館の展示は、原爆投下、終戦からアメリカの歓喜の写真と続いており、日本人としてはなかなか続きを見る気持ちにはなれないものです。
降伏文書の調印式が行われた戦艦ミズーリは、現在は真珠湾に浮かんでおり中を観光することができます。調印式を行ったその場所には、当時の様子を紹介する展示がたくさんあり、原寸大の降伏文書も展示されています。
ワシントンDC内では、海軍博物館に戦艦ミズーリの模型や降伏文書のコピーが展示されています。
降伏文書
太平洋戦争がわかる観光地
https://yadakotour.work/history/ww2/https://i0.wp.com/yadakotour.work/wp-content/uploads/2019/06/DSC_5894_.jpg?fit=900%2C673&ssl=1https://i0.wp.com/yadakotour.work/wp-content/uploads/2019/06/DSC_5894_.jpg?resize=150%2C150&ssl=1やだこアメリカの歴史1941-1945年
真珠湾攻撃により、日米開戦。戦場はどんどん日本本土に近づき、硫黄島や沖縄で両軍莫大な犠牲を払うも終わりの見えない戦争。1945年8月、米大統領トルーマンの決断により原爆投下。15日、終戦。
アメリカでは、太平洋戦争はどのように説明されているのか?
アメリカ国内の関連する観光地や博物館をめぐり、そこで展示されていたもの、解説などから得た情報を中心にまとめています。関連する観光地等も紹介しています。
日本とアメリカの見る「太平洋戦争」の違い
日本で太平洋戦争というと、ほとんどの人が「原爆投下」「天皇陛下の玉音放送」「特攻隊」「空襲」・・・など、終戦間際の日本の悲劇を思い浮かべると思います。
アメリカでは、全くその逆です。(自国の悲劇に焦点を当てるという意味では同じかもしれません。)
アメリカで太平洋戦争の展示を見ると、とにかく真珠湾という文字が目に留まります'。
ここでは、太平洋戦争がアメリカでどのように展示されているかを紹介します。
アメリカが描く真珠湾攻撃
真珠湾攻撃の概要
1941年12月7日午前7:55(現地時間)、日本海軍の航空部隊がハワイオアフ島の真珠湾を攻撃。
真珠湾攻撃が起きたのは、とある静かな日曜日の朝でした。オアフ島の上空に日本の軍用機が無数に飛び交いました。
そこは、米軍の飛行場、病院などが集まる米軍基地。200機近い日本軍の爆弾機、魚雷、急降下爆撃機などが、次々と米軍の船や航空機を攻撃していきました。
真珠湾攻撃を受けたハワイ真珠湾の模型
その1時間後、第二次攻撃。午前10時頃までには、18隻の米軍の船が破壊されて油の流出した海に沈み、真珠湾は火の海に包まれていました。
300機以上の航空機が破壊され、2,500人近いアメリカ人が死亡、1,000人以上がけがをしました。
翌日、フランクリン・ルーズベルト大統領は日本との開戦を宣言。
日本との開戦を宣言するフランクリン・ルーズベルト(左)、ルーズベルトの原稿(右)
太平洋戦争を始めた大統領”フランクリン・ルーズベルト”
国立アメリカ歴史博物館では、フランクリン・ルーズベルトは英雄のように紹介されています。
対照的に、悪の枢軸と言わんばかりに、日本の東条英機、ドイツのヒットラー、イタリアのムッソリーニがその横で並んでいます。その隣の映像では、日本との開戦を伝えるルーズベルトのスピーチが流れています。
フランクリン・ルーズベルト大統領(左)と、東条英機や大日本帝国について書かれたパネル(右)
太平洋戦争の戦況
太平洋戦争の戦場
1941年12月7日、Pearl Harborで太平洋戦争勃発(地図の右端)。その後、戦場はどんどん日本に近づくばかりです。
WWIIメモリアルに戦地として刻まれている硫黄島と沖縄'
ワシントンDCにある第二次世界大戦メモリアルには、戦地となった地名が刻まれています。真珠湾を筆頭に、ソロモン諸島などを経て、硫黄島、沖縄、そして日本と続きます。
たくさんの戦闘機が、航空宇宙博物館には展示されています。小説『永遠の0』や映画『風立ちぬ』でも有名な零戦は、スミソニアンの航空宇宙博物館の本館に展示されています。
零戦
硫黄島の戦い
硫黄島の戦いは、1945年2月19日から3月26日まで、およそ7万人のアメリカ軍と2万1千人の日本軍と戦いでした。
硫黄島は両国にとって戦略的にとても重要な場所だったため、両軍は莫大な犠牲を払いながらもこの戦い続けました。
アメリカ兵は、2万人近くが負傷、7千人が戦死。そして日本兵は、戦いが終わった時には1,100人しか生存者がいなかったそうです。
ワシントンDCに隣接するアーリントンにある”硫黄島メモリアル”
壮絶な戦いの末、最後の力を振り絞って硫黄島に勝利の旗を立てる米兵の写真や像は、あまりに有名です。
硫黄島はなぜ重要な場所だったのか!?
硫黄島は、日本とマリアナ諸島にあるアメリカ軍基地を結ぶ真ん中あたりに位置する島です。
1944年の夏頃には、アメリカのB29爆撃機は、マリアナ諸島にある米軍基地から日本本土を攻撃して戻ってくるだけの飛距離を確保するようになっていました。
そこで、多くの爆撃機が日本本土に向かって飛んでいきましたが、戦闘機による護衛のない多くの爆撃機が、日本の反撃に遭い海に落ちていきました。
日本本土への距離が近い硫黄島をアメリカが占領したことで、アメリカの戦闘機はミサイルを積んだ爆撃機を護衛することができるようになり、また、攻撃を受けた爆撃機は硫黄島に避難することができるようになったのです。
アメリカ軍にとってこの硫黄島の戦いの勝利は、爆撃作戦に膨大な利益をもたらしたと考えられています。現に終戦までの間に、2,400機のB29がここから離陸していきました。
アメリカから見る”終戦直前”
開戦時の大統領フランクリン・ルーズベルトは、大人になってからの小児まひで重度の身体障害を負っていました。第二次世界大戦という非常時に、車いす生活で異例の4期にもわたる長期政権を築いていましたが、1945年4月に長年患っていた病により他界。日本に原爆を落としたことで有名な、トルーマンに変わります。
その頃には、日本の大きな都市は大半が破壊されており、ほとんど残っていませんでした。それでも日本は降伏せず、決死の抵抗を見せています。
アメリカは、終戦間際の硫黄島と沖縄戦で莫大な犠牲を払い、さらには、日本の特攻隊による米軍船の攻撃により、たった2ヶ月で過去2年間の戦死者を上回る犠牲を払っています。
1945年7月、トルーマンは原爆投下という、物議を醸す決断を下しました。1945年8月6日、一つ目の原子爆弾が広島に投下されました。そして同年8月9日、二つ目の原爆が長崎に投下。
特攻隊
アメリカ軍になんとか大打撃を与えたい日本は、爆弾を確実に米軍の船まで運ぶための案内役として、自爆攻撃のパイロットたちを送り始めました。
2800回の神風特攻隊は、34隻の船を沈め、288の米軍の戦力に打撃を与えました。
特攻機”桜花”
トルーマンの決断”原爆投下”
1945年8月9日(長崎原爆投下の日)、トルーマンはこのように国民にメッセージを出しています。
「私たちは、予告なしに我々を攻撃し、アメリカの捕虜を飢えさせ、叩き、侮辱した者たちに対して 爆弾を使用する。私たちはこれを、苦悩の戦争を終わらせるために、そして何百万人ものアメリカの若者たちの命を守るために使用する。」
それは、戦時中にマンハッタンプロジェクトで秘密裏に開発されたものでした。
広島に原爆を落としたB29”Enola Gay'が、スミソニアンの航空宇宙博物館の別館に展示されています。
広島に原爆を落としたB29”Enola Gay'
そして、そのEnola Gayから広島に落とされた原爆”Little Boy'の模型が、海軍博物館に展示されています。
広島に落とされた原爆の模型
こんなに迫力のある威圧的なものが日本の上空を飛んでいたのかと思う大きな爆撃機と、こんなもので広島が死の海と化してしまったのかと思うほどの小さな爆弾です。
終戦
昭和天皇の玉音放送の一部が、国立アメリカ歴史博物館に展示されています。
「敵は新しく最も残虐な爆弾を使い始め、その破壊力は本当に計り知れない多くの無実の人々の犠牲を払うものである・・それこそが、共同宣言(無条件降伏)を受諾するように私が日本政府に命令した理由だ。」
国立アメリカ歴史博物館に展示されている昭和天皇の写真
原爆を落とした国と落とされた国、相反する二つの国のトップが「自国の民を守るため」という同じ動機を使い、結果的には原爆により戦争が終わったという事実は何とも言い難い皮肉です。
国立アメリカ歴史博物館の展示は、原爆投下、終戦からアメリカの歓喜の写真と続いており、日本人としてはなかなか続きを見る気持ちにはなれないものです。
降伏文書の調印式が行われた戦艦ミズーリは、現在は真珠湾に浮かんでおり中を観光することができます。調印式を行ったその場所には、当時の様子を紹介する展示がたくさんあり、原寸大の降伏文書も展示されています。
ワシントンDC内では、海軍博物館に戦艦ミズーリの模型や降伏文書のコピーが展示されています。
降伏文書
太平洋戦争がわかる観光地やだこ
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